2015年09月20日

【刮目】白湯(さゆ)の心得

1-5)改稿.2015/09/20...20130218...

> モノが売れなくなる理由の説明には、缶ジュースが最適だろう。


 缶ジュースは、どんなに色取見取に並べられていても、
 その中のお気に入りの一本に飽きてしまうと、途端に全商品の魅力までが色褪せる。
 ‥この現象は、失恋のそれとなんら変わらない。

 恋愛気分にも誘われてモテモテ感が漂うと、なぜか、色取見取にも同時に複数を好きになる。
 それでもお気に入りは、多くても2〜3程度だろう。
 ‥で、その中の本命と決裂しようなら、途端にすべてが色褪せて見えるのだ。

 缶ジュースの場合は、細胞レベルな要求に左右される点は外せないにしても
 毎日飲み続けることの選択支ゆえに、自ずと「水」に辿り着く。
 ‥それでも水は売られているのに、白湯(さゆ)は売られていない。

 「それはなぜだろう?」
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2015年09月07日

【刮目】恥とは何か?日本人のそれ

1-2)改稿.2015/09/07...20121021...

 向こうから願い出ずして、相手への提携も技術供与も一切ありえぬ。
 それが実際だ。警戒するのが当然とされて来た。

 お節介にも親切が前提などというような次第では、筋が通らぬ。

 向こうからやって来るのはいつだって上から目線の支配的要求だ。
 少なくとも、お互いにメリットがなければ、関わり合うことはない。
 坊主にしたって、悟りへの道半ばでの修行中の身だ。それが前提にある。

 「‥涼しげにも、余裕をかましての親切とは何ぞ?」


> 親切の「切」とは


 お互いに身を切るほどに切羽詰まった境遇の中でのさらなる親しさを指して言うのだ。
 そこに対等がある。親しさと切なさ。ゆえに「親切」である。
 ‥対等に無くば、ただの恥欠かせに過ぎぬ。決して有り難きになんぞに無し。
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2015年08月28日

【刮目】愛してるを言わない日本の遺伝子の見方

1-3)改稿.2015/08/28...20100928...

> 日本は村社会的である。


 その根底にある得体の知れない性質は、
 民主化、欧米化、グローバル化してみた所で‥さほど変わらなかった。
 ‥そこにこそ「愛してる」を言わない日本の遺伝子の見方があった。
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2015年08月26日

【盲点】役人への期待が税を欲する

1-3)改稿.2015/08/26...20100316...

> 今時代、行政管理の財源の前提は税金です。


 その範囲でしか安心・安全を確保できないというのが、このルール下でのとりあえずの理屈です。
 不足する分は、国民との相談の下に対応すべきが国民主権上での筋ですが、そうはなっていません。

 国家試験がすべてをあやふやにしています。
 民主選挙がすべてをあやふやにしています。
 権限が与えられたというお約束が全てをうやむやにしています。


> それが財源を自由にしても良いと考えている了見です。


 ‥未曾有と思える大金を前に、誰もが例外なくブレることでしょう。
 例外があるとすれば、それは勇気を以て、たまには全く何もしない政策の実行です。
 仕事が無いなら、役人にその分の賞与を与える必要も生じません。

 だってそうでしょう。

 役人は実質的に不景気を知りません。常に仕事に追われています。
 ならば、彼らにだって公平に不景気を与えるべきが筋だからです。
 そうです。暇を与えるべきだったのです。(勿論その間の手当なんかありゃしません)
 ‥それこそが正しき再分配というべき有り様です。(無い袖は振れやしないのですから)
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2015年08月22日

【刮目】50キロ法定速度は誰のため?

1-2)改稿.2015/08/22...20130620...

 今や法定速度は50キロが一般的だ。40キロなんてほとんど見ない。
 昔は結構あったんだ。
 子供の頃の記憶をたどるなら、20キロ‥30キロ‥の道路上表記が、
 年とともに速度上昇して行ったのを覚えている。


> 普通に考えれば、世の中の需要と言えるのだろうが‥果たしてそれだけだろうか?


 安全性を第一に考えれば、40キロが限界だと思う。(それ以上はどう見たって危なっかしい)
 しかしこれがおもしろいことに、運転している側にはわからないのだ。
 運転している側にとって、40キロはちんたら速度でしかない。
 ‥それでも40キロが50キロになると途端にカーブ対応が危うくなる。

 一括りに法定速度を上げることで適正を見いだそうとも
 安全の第一であるドライバーの状況判断と操縦テクニックは比例しない。
 ‥渋滞しがちならともかく、比較的少ない交通事情なら上げる意味に欠くばかりになる。

 でもまぁ、エコロジーで考えるなら

 40キロよりは50キロの方が燃費改善を示すのにはちょうど良い目安になるのだろう。
 仕方がないといえば仕方がない。
 それはそれで法定速度の方も合わせておかないと、宣伝にも説得力を欠くことになる。
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2013年12月24日

【刮目】同意依存から脱する為に

1-3)改稿.2015/09/21...20131224...

> 人は、自身が汗した糧だけは信じられるものだ。だから、汗した糧を失いたくなどない。
> たとえそれらが周りと比べて未熟にあろうとも、人はそこからしか前進できない。


 「同意依存症候群」
 マインドコントロールされた状態を、日本語に訳せばこんなだろうか。
 ‥同意依存だけで用いれば、個人の思い込みの方を強めに意味することになる。

 世間の情報をどんなに取捨選択しようとも、自分の見方でしか解釈できない。
 ‥それら価値観の根っこにあるのは自我である。

 同意・うなずいてしまう思考の中には、
 ついつい引き寄せられて、それの辻褄を点検することなくうっかり信じ込む癖がある。
 ‥人とはそういうもの。それの経過を見ないことには、互いの存在感としての意味合いにも欠く。
 (頭から疑ったり、否定ばかりでも、おもしろくも何ともない)


 「汝は何を望み信じたか?」‥まずはそこを確認する癖を付けることだ。
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2013年02月10日

【刮目】ブルース・リーの名言に挑戦!!

改稿.2015/09/17...20130210...

 曾て、ブルース・リーは言った。


> “Don't think.FEEL!!! It is like a finger pointing away to the moon.”
> 「考えるな、感じるんだ!!‥それは月を指さすようなものだ。」


 ‥ならば、著生も続くとしよう。

 喰らい尽くすは、即ち、何も与えずに等しき行為である。ゆえに、
 喰らい尽さんと欲した行為は、
 即ち、すべてが手に入るように見えて、実は何も身に付かない結果を自らにもたらす。


> 欲張るな、空(から)になれ!
> 学び切ろうとするな、信ずるところをやり通せ!
> 近づこうとするな、向こうからやって来る


 そうして、すべては丸く育まれん。
 ‥ただし、用の無き所に風は吹かん。

 「お前は風か?」

 腹一杯になっちまった風ほど役に立たぬモノはない。
 我々はそれを「無」と呼ぶ。

 為す必要がないから風は吹かん。

 それが自然にあると思えぬのなら、お前がそれを勝手に成さんとしているだけのこと。
 用の無きところに風は吹かん。努力努力と吹き続ける必要なんぞそもそもにして在らず。
 風が必要だと思うなら、まずは止むるべき時分をわきまえよ。
 ならば、吹くべき時分も同時に定まろう。然りして無為自然なり。


> 始めようとするな、まずは終えよ


 一つを終えておらぬのに、次は始められぬ。
 一つとして終えておらぬ者に、次など努まるわけがない。

 さすれば、無為自然である。

 終わりを知らぬ者に始まりは見つけられぬ。
 始まりを見つけた時、同時に終わりを理解した者は幸いである。
 道とは、始まりと終わりをただ貫いているだけなのこと。
 あとはその道を進めば良し。されど進む必要もまた無し。

 道はどこにでもある。道は様々だ。そして、私たちは一つの道しか選べない。

 同時にいくつもの道を行こうとすれば、必ずや迷うだろう。其は風に非ず嵐なり。
 ただでさえ、一つの物事をきちんとした形で終えられぬ者らに、
 「どうして、人の世の身勝手な資本の嵐をやり遂げられると言うのだろうか?」

 嵐が鎮まる時はそれこそ死なり。死ぬるのみ。
 死ぬに道なし。殺(あや)めるなかれ生かせよ。生かして渡りきるが道なり。


> 武士道の道とは、主君の道なり


 主君が家臣に死ぬるように事を強いれば、自らを殺める危機を招くだけの事。
 又、他を生かして自らを失っても良いなどと何の意味があろう‥
 「どこに挑戦があろうか?」
 己の信じた道を突き進み、そこに死が訪れんのならそれこそが本物だ。

 生き死にの境を踏んでそこにあったなら尚更である。(其は必ずしも勝つことに非ず)

 生き死にの境を踏んでおる者、即ち、始まりと終わりの筋道を踏んでおる者、
 即ち無為自然として道を行く者なり。

 風なんぞ無理に自ら吹かせんでもよろし。乗れば良きこと。乗る必要もまた無し。

 「降り方を知らぬのに、乗る馬鹿とは何ぞ?」
 「風を乗り切る力もないのに、煽られるままに乗ってどうする?」
 ‥降りられる場所とて、そうそういくつもあるわけでもあるまい。

 乗る場所もまた、そうそうにあるわけではない、故に‥人は迷いだす。
 ‥ならば姑息に為らぬように自らを磨かねば為るまい。


 道はいくつもある。風なんぞいくらでも吹こう。
 されど、行ける道は一つなり。そこに目が向かずに疎かな者に風なんぞ吹くわけがない。


> 「風を求めるな、道の先を見よ!!‥それは路端に厠を欲するようなものだ。」
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2012年11月25日

【刮目】囲碁は「分け合うゲーム」or「奪い合うゲーム」

改稿.2015/09/16...20121125...

 囲碁を陣取りゲームと思えば、如何に多くの地を奪うかである。(相手の石の連携を絶つ)
 そう考えると、囲碁がそのまんま資本競争にも見える。(侵出先の地場の結束を破壊する)

 ルールに於いても
 囲碁は、勝つ為に、地数を数え、その損得を考慮して手を打たねばならない。


> しかし囲碁には、別の見方もある。


 囲碁の実力が伯仲していれば、嫌でも半目差にしのぎを削ることになる。つまり、
 囲碁とは、如何に相手と同じ地の数にし合えるかのゲームでもある。(相手の石の連携も考慮する)

 ‥そのように解釈を変えると、ぐるりと意識を変えざるを得まい。

 礼に始まって礼に終われるかどうかだ。
 半目差で終えられるかどうかこそが、囲碁の醍醐味とも言えることになる。(よりハードルが高い)


 接待囲碁が、「ヒカルの碁」に描かれていたが、素直にすごいと思った。
 プロがお客さんを相手に力量を推し量りながら、自分の地数と同じになるように計るのだ。
 ‥手を抜いていると言えば、手を抜いているわけだが、実力がなければそんな芸当は無理である。

 そうであれば、プロのトップクラス同士がしのぎを削り合って、
 互いの地の数が同じに至ろうなら、それはそれで美しいのだろう。(強くないから汲み取れん)


 実力が違えば差が付いてしまうのは当然だが、
 大差で勝とうなどと欲張ろうとする考えが、如何に生意気で傲慢にあるかは、述べるまでもない。
 ‥囲碁には、そういう見方もあると言うだけの話である。


> 囲碁のそこを人生の様々に置き換えると、実力が伯仲することは美しい‥ということでもある。


 ‥それはつまり
 そのような対局・対戦・対峙を普段から目にする為にも、
 互いに大差を望む考えは、ただ単に生意気で未熟にあるだけと心得るべきことになる。

 圧倒的な様を見るのも、見せつけられるのも、まぁ悪くはないにせよ

 ・お互いの持ち味を引き出す
 ・味わう
 ・乗り越える(叩き潰す)
 ‥としたそれぞれの過程にこそ面白さの妙がある。(マンガも同じ)


> そこが成り立つ為にも必要なのは


 個の天才でも実力でも努力でもない。それは、全体の場の空気だ。
 私たちの側が、社会の空気が、常勝に憧れるだけで一方的な強さを見たいだけなら、
 ‥プレイヤーの表情からして詰まらない結果をもたらす。

 とくにそれは、プレイヤーの心理に影響を与える。(述べるまでもない)

 プレイヤーは勝利してこそと誰もがそう思っている。しかしそれだけではない。
 ‥それだけではないとした空気が、均衡を保った状態にあるかどうかだ。


> それこそが、「礼に始まり礼に終わる」ということである。


 プレイヤー同士の実力の伯仲に見せられるばかりでは、とてもそうにはならない。
 プレイヤー側のモチベーションがどうあれ、私たちが醸し出す空気にも礼が求められるのである。


 ‥例えば、賭博はどうだろうか?
 あのような場は、誰がどう考えても奪い合う場でしかあれていない。
 そのような空気で占められている。(まぁ賭博はああいう世界だ)

 ‥近年のオリンピックはどうだろうか?
 昔以上の尋常ならざるピリピリ感が、映像を通しても伝わってくる程だ。
 昔はどちらかと言えば、もう少し楽しもうとの空気があったように思う。
 時代の経過と共に、すべてが興行と資本の価値観に偏っている。
 会場の作り方にしたって、そんな感じだ。


 「礼に始まり礼に終わる」を執り行う為にも、変えてはいけないところを変えてはならない。


 ‥囲碁を参考にしてみるとよく分かろうものだ。
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2012年06月26日

【刮目】ふるさとへの想いこそ活力なり

1-4)改稿.2015/09/05...20120626...

 問A:
 あなたは、今、戦国の世の百姓の身分とします。
 地元を治める大名は、世間に評判の届かない殿様です。
 そんなあなたの国に敵が攻め込んできました。
 攻め込んできた敵の殿様の国は、とても良くまとまっているとの噂です。

 あなたは、同郷の義を重んじてお国を護ることに徹しますか?
 それとも高みの見物で中立を選びますか?


 問B:
 あなたは、今、戦国の世の百姓の身分とします。
 地元を治める大名は、世間に評判の通った殿様です。
 そんなあなたの国に敵が攻め込んできました。
 攻め込んできた敵の殿様の国は、勢いがあり、勢力拡大にイケイケだとのもっぱらの噂です。

 あなたは、殿様への謝意を以て、この時とばかりに命を懸けて共にお国を護ることに徹しますか?
 それとも高みの見物で中立を選びますか?


 ※ 参考:
 兵農分離が進んだ戦国後期の戦では、
 戦場が百姓の土地を含んでいようといまいと、平然と踏み荒らすように変わっています。
 土地を荒らされた百姓は、必要に駆られて落ち武者狩りに参加せざるを得なくなりました。
 中立を決め込んでも不憫、戦闘に参加しても主役はもはや火縄銃にありました。
 ‥なのでここでの戦国とは、戦国初期の様を指すとします。
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2011年02月13日

【刮目】ライトアップ症候群は、自然界の迷惑だ!

改稿.2015/09/01...20110213...

> 俺は夜景のライトアップをきれいとは思わない
> 「なぜそう思うのか?」‥その答えがようやく見えてきた


 日本のライトアップ第一人者は、石井幹子(いしいもとこ)だ。
 彼女は、「海外では建物がライトアップされて夜景がきれいなのに日本にはなぜそれがないのか?」
 ‥その浅はかな思いだけで、日本でのライトアップ活動をおぱじめた犯人(ホシ)である。

 ここでは犯人との表現を用いるが、別に法律に違反した活動をしているとかではない。
 ‥野生動物の好奇心を人里に引き寄せて、
 農家に甚大な被害を及ぼしている可能性のきっかけの張本人という推理からそう呼んでおくとする。


> ググってみると


 彼女がぼちぼちと活躍し始めたのは、1980年代からである。それ以前は、
 オイルショックの影響から、照明デザインは電力の浪費と受け取られ不遇の時期を過ごしていた。

 1989年に、東京タワーのライトアップが始まった。
 1993年に、レインボーブリッジのライトアップが始まった。
 ‥たぶんその頃を境に、日本全国の夜光が、宇宙から見て一番派手になり始めたんだと思う。


> 石井幹子の理想とする照明は


 「満月の明かりのような清らかで美しい静かな明かりが好き」‥だそうだ。
 でもまぁそんなのは関係ない。夜空をキレイにすれば良いだけだ。地上に持ち込む必要なんか無い。

 夜光を発すれば、虫が引き寄せられて人里に下りてくる。
 その虫を追い求めて人里に引き寄せられるのは獣である。
 ‥それの蓄積と時期は、ちょうど一致する。

 無論、それ以前にも、昼も夜も慢性的なライトアップは始まっていた。

 少し遡れば、高速道路やら24時間コンビニなんてのもそれに荷担していたと言える。
 ここで肝心なのは、誘導路を形成してしまうインパクトの大きさだ。
 ‥ありとあらゆるライトアップが、野生生物を刺激してきたものとして推測される。


> 特に夏の間、人の活動は夜長になる。


 虫たちは明るいままのそれに‥街の夜光に引き寄せられて、そのまんま山に戻ることなく果てる。
 なんにせよ虫たちの命は短い。その結果、虫たちを追って小動物が移動を始めるようになった。
 なんにせよ獲物が減り始めようならそうならざるを得ない。
 ‥とくにタンパク質の激減は、容赦ない選択を要求させたものと思われる。

 周りに小さな獣の気配が無くなると、今度は大型の獣たちが小動物を追い始めた。


> 年々その距離が人里に近づき、ついにはその境目が無くなったのだとしたらどうだろうか?


 最近の調査では、熊の中には冬眠することなく、
 人里近くにヨッコラショと、巣穴を構えてくらしている輩が多発していると聞く。
 喧騒なんかなんのその‥熊でさえ、山里よりも人里の方が暮らしやすいことに気がつき始めたのだ。

 熊にしても、肉好き、植物好き、魚好きと様々とある。人間の食好と同じように
 それぞれ自然界のバランスを保つ働きの中にあった。‥ところがどうか
 人里の食べ物の方がうまいと知られりゃもうお手上げだ。奴らは手強い。それが野生でもある。

 その結果、大型の肉食獣の気配の薄くなった山奥から、鹿の数が増え出したとておかしくない。


> ‥鹿の被害は90年代後半にはかなりの規模になりだしていた。


 これは、どうしようもないほどに、
 石井幹子の活躍とライトアップ認知の波及との時期が一致してしまうのである。

 それと同時に、猛プッシュされてきた道路賊に空港賊。
 どちらかと言えば、そっちの開発等の方が虫にしてみればインパクトが大きい。
 飛び疲れたなら車にでもよっこらしょと止まれば良い。簡単に飛躍的な移動が可能になる。


> 俺の推理は間違っているだろうか?


 そんなことを知る由もない石井幹子曰く。
 「やってないところがあまりにもまだまだ多いから、もう一回東京の照明を見直したい」‥だそうだ。

 そんなのは、日本全国の夜をさらに煌々と照らして、
 「野山から虫をはじめとした生き物すべてを都会に集めちゃうわよ」っと
 無邪気に語りに落ちた子供と変わらない。


> 「そんな照明は日本では有り得ない!」
> 石井幹子が駆け出しの頃、いろんな所でそう言われたそうだ。


 ‥北欧をのぞいた西洋の森林は、伐採のしすぎで一度壊滅してしまったあとの姿にある。
 ゆえに、そこにある風景は、すべて人工的(デザイン)でしかないのだ。
 そこを真に受けてしまっては、日本の原風景は成り行くまい。


 「人の価値観ばかりで以て、風景のキレイを見てんじゃねぇ!」
posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:39 | Comment(0) | 刮目 | 更新情報をチェックする