記稿.2015/09/12
カルマとは、自らの趣向の偏りの結果生じるに至った腐れ縁の再来。
‥この世に生まれ変わる度に、修正を求められ、必要があればやって来る。(まぁ面倒くさい話だ)
> しかし、よくよく考えてみれば
> いろんな人間が居る中で、どうしてそんなに都合良く再来できるだろうか?
> ‥どう考えたって、接着剤役が居ないととてもしんどい話にもなる。
指導霊、守護霊にしたって、わざわざ好きこのんでパターンなリスクに再挑戦したいだろうか?
それこそ、そんな選択支でしか成長させることができないのなら、それこそがカルマになって来よう。
‥指導霊、守護霊にしたって、本音は半分嫌々なんだ。
成長したのにわざわざ同じ課題を与えることで確認するなどと言う手間に何の意味があるだろうか?
‥それこそ、適当にいいわいいわであしらってリアルになんてなるまい。
そこで、リアル現実促進剤としての接着剤役が必要とされた。
‥科学でも反応を効率よく促進させるのに、触媒使うよね、アレと同じ。
> それがつまり陰始システムだった
陰始とは、大ざっぱに言うとフリーメーソンの上に居座る隠れた親玉。本体。半霊的な存在。
その者の持つ能力に、人の雰囲気を操って元気を奪うというのがある。元気を奪って寿命を更新する。
‥つまり接着剤の役目をしてくれると同時に、ストレス再現を及ぼしてくれるのだ。
陰始としても、新しい因果を与えてしまうようでは、自らに跳ね返ってしまう。
そこで、成り行き上に生じた負を再現して元気を奪った方がリスクが少ない。
‥また得られるエネルギーの量を先回りして計算できる。
再現を引き起こすだけならパターンで済ますことができ、その都度企画立てる必要もない。
主格級キャラにスイッチが入れば、あとは連鎖していくだけだ。少ない燃費で運用できる。
‥修行という意味合いで考えても
不慣れな相手とやり合うよりは、同じ相手との再現性の方が成長した中身を応用できるというものだ。
だが、陰始のエネルギーもまた上昇していくので、同じ結果が繰り返される確率はさほど変わらない。
多少の改善が見られたとて、最終的なカルマの解消には至らない。
‥むしろ、そのパターンの中にある雰囲気から、根本的に解脱しようと腹を決めない限り無理。
> そもそもにおいて
特定のパターンの中にある雰囲気を切り替えて、且つ、新しい提案なり行動を起こせないのでは
いつまで経っても、古い雰囲気を纏っているのと同じだ。趣向傾向として改善されていない。
‥それが群衆のレベルになれば、尚のこと混乱のままだ。
「古いやり方が当然だ、新しい提案など有り得ない!」
「新しい提案と言っても、所詮中身は同じじゃないか、何の意味がある?」
「同じなら、我々がこのまま仕切っても同じこと‥混乱を早期解決する上でも折半すべきである。」
‥そんな感じのパターンが連綿と繰り返されんばかりだ。
> 行き詰まったなら、新しい試みに挑戦すべき、それが駄目ならまた挑戦だ。
さりとて、その時、ケアすべきを放置したままで居るとそこにカルマが生ずる。
物事にはバランスもまた求められている。
どこかに負が発生したままにあると、そこから陰始システムが息を吹き返し雰囲気が逆転していく。
‥老いと若きのバトルなんざ、いたってそんなものだ。
歯止めが利かなくなると戦になる。力尽くでの応酬だ。
それがまた陰始システムの牙城を確固たるものにしていく。
そんなこたぁ分かってるんだというのなら、その者の課題は、すでに次のステップにあるのだろう。
‥個人的なカルマの解消にもはや意味は無い。
全体でのカルマ解消の先駆けとして、新しき風を吹き込む雰囲気のよすがにあらねばならない。
それは別に大層なことじゃない。個人的な課題でもある。自分自身を実直に表現することだ。
弱みがあるとか、嘘を抱えているとか、そういうのは早急に解消しておくべきである。
‥のび太のままじゃ駄目だと言う事だ。
のび太がのび太として新鮮な状態にあれということだ。
別に、のび太が冒険的ヒーロー役なんかやらなくても善いんだよ。無理に持ち上げる必要も無い。
‥ドラえもんという看板でないとダメなんだという思考自体がカルマの渦を呼ぶ。