記稿.2017/03/02
‥本日のお題は、「ひな祭り」
是は、俺の詠みようなきお題、つまり、もう終わりでよろしいのサインっすね。
ということで
あとは、溜まっちまってる手直し一喝をするかしないかという事に成りました。
(できればやっちまいたいが、時間的に無理っす)
‥いやはや、一年程度見てきましたけどね
「夏井いつき」の詠みは、天然の句またがりで、しかもメルヘンお花畑のくせに
どうにも、あの「ちくしょう叫びな毒舌」というか‥解釈性は
言葉の組み合わせの一つ一つに敬意が感じられないので好かん。
所詮は組み合わせなのに、そこに何を見出しているのかという点において稚拙です。
精神的な深みに於いて、稚拙と言うことです。
そら、天然の句またがりの詠み手っすから、折り込み済みでしょうけど
‥当人がそこをどう思っているのかは謎です。
> この言葉は要りませんとか、まぁそんなのは俳句だから言い得ているだけで
> 精神的な深みを求めようと思ったら、それこそ必要の無い言葉なんて無いわけですから
> ‥まぁそんなこんなで、言葉からのしっぺ返しに煽られるんでしょうね
必要の無い言葉などありませんが、
言葉だって、死ぬこともありますし、未だ生まれてこない言葉もあるわけです。相性だってあります。
‥その辺のよすがをどう折り込むかという点においてまだまだっすよね。
「死んだ言葉と、生きている言葉と、死んでしまっては成り立たない言葉があるわけです。」
歴史的仮名遣いにしたってですね
私たちはヤ行・ワ行の細かきを失っているわけでして、
正確なところの歴史的仮名遣いにはほど遠いのです。
(正確にそれを表現するなら「平安的仮名遣い」だと思います)
まぁ精精が、平安頃を参考にしているだけで、後の世の側が勝手にそう呼んでいるだけです。
実際、平安を遡って、言葉がどのように表記されていたかなんて
私たちが国語学として体系付けてみたところで、当時だって、表記の模索があったわけです。
そこを勝手に、表記途上のあの時代に合わせるべきだと主張してみたところで
それが正解という保障はどこにも無いのです。
‥昔の空気感に添っていると思えば、それでも良いでしょうし
かといってそうでなく、ただ単に五七五に納めるためだけに昔の言葉や用法を放り込むというのは
知識よりもまずは、何を詠まんとしているのかでもあります。
気持ちや考えが、昔の人のそれと同一に成り得ると思えば、それはそのまま使えるかも知れませんし
文化がまったく異なると思えば、その言葉の盛り方に工夫が必要もしくは使わない方が良い
ということにだってなると思います。
> ‥テレビ番組の性格もあると思いますが、そこまでを考えているようには思えませんでした。