記稿.2024/09/28
> 西洋史は謎だらけなり
> 奴隷文化がど真ん中だったのに‥「ルネサンスって何?」
> 奴隷文化からの解放の方が、人間性の解放としたテーマに則しているように思うのだが
> ルネサンスを意味する古典復興の古典とは一体全体何なのだろうか?
‥日本の教育では、その辺りを、ルネサンス芸術を持ちだして人間性の解放に思い込ませている
それはそれで、宗教に対する呪縛を、学問視点にすり替えて、何となく教え込んだつもりだ
(実に気楽な商売だz、そして教わる方はマヌケなり)
そもそものその手のアートにしたって、教会を華やかに飾り仕上げたに過ぎん
それはそれで、教会が曽ての栄華を取り戻す為だったのが古典復興とした意に見えてくる
其は、教会は魔女狩りをする拠点に非ず、祈りの場所である‥みたいな
(曽て魔女狩りの爆心地のくせに、どうして掌を返したように、人間性を問わんとしたのか?)
(未だ以て、悪魔の隠れ拠点のくせに、ローマ発は謎すぎるz)
> 教会を中心にしたバイアスで問うなら、そりゃまぁ祈りの場所に適った美の追究だったのだろう
> それが本来の意味であるなら、祈りを中心に添えた生活空間の創出こそがルネサンスの意だろう
> (祈りを取り戻すとした運動だったと考えると、そうなのかもなぁとの想いはすれど‥‥)
‥だがしかし、魔女狩りも奴隷文化も中世時代の象徴だったかのように続くのだ
其処をツッコむと、ルネサンスとした概要は、特定の芸術家の時代が去ると形無しになる
結果として、そこに根付いたのは芸術運動のようなスタンスだけが残ったと言える
その後に、祈りは在っただろうか?、在り続けただろうか?
(その手の競売に踊ってただけだろうがッwww)
結果的にその手の芸術を「古典」と呼ぶ
ゆえに古典復興とは、「祈り」を有するか否かと言えるだろう
> ならば、日本の教育に見る誘導っぽい感覚で以て人間性の解放を説くなら
> 「祈り」とした概念を示さぬ表現世界は、ただの自由なだけであって、人間性たる表現に非ず
> との喝判別をせざるを得ず
‥「いやいやいや、それはお堅いでしょう」
とツッコまれそうだが、それにはこう返すしかねぇ
‥だって、俺たちは「およげ!たいやきくん」なんだz
その版権にしたって、1円も追加褒賞なかったって聞くz
まさに「およげ!たいやきくん」地獄の見せしめに見えたもんだz
そげな社会性のチャッカリに対しては、祈るしかねぇだろうがッ‥と
‥1円も追加褒賞しなかった方こそただの自由表現なだけで、人間性としては
鬼でしかねぇじゃん、だれも仏としては見ねぇじゃん
お前らの表現たる土台(社会基盤)の中身がそれなんだから
其処から湧いてくる作品なんて、ただの自由表現なだけじゃん
「祈り」なんてどこにあるんだよ、「祈り」たる何かを学べたか?
精々が「救いがぽちい」ぐらいだろうz
今やすくいようのねぇ作品ばかりの多様化が傾向だし、そのまんまじゃねぇかよ
「祈り」を以て対峙するか否かという差が名作を孕むのだ‥とかなんとか
> まずは、「祈り」について真摯に問うべし
> そこに汝の人間性(前向きなる人格)が誕生するだろう‥‥ガチだz
向宜詠吟『祈れそして問え』
|戸惑いや何故に立ち寄る冬の入り どこもかしこも寂れゆく狭間
|間にあるは吾の静けさ銀世界 祈りは果てにて姿見せむ
|夢幻なる厳冬越すも生きてこそ 先の芽吹きも手を取りてこそ
|傍に在り唯それだけの花の下 祈りと共に在らずんば「何だ?」
|祈り問え、其れは地獄か?天国か?‥汝の示し汝の正義
|祈り問え、汝の正義はどこを向く?‥生死か制止か静止か遁走か
|祈り問え、その愛憎はなぜに湧く?‥感情製造器はロマンに非ず
|祈り問え、その自由はなぜに湧く?‥勝手の価値に持続などなし
|祈り問え、汝はなぜに生きて在り?‥解を得ずとも甲斐性の旅
|祈り問え、課題はなぜに其処に有り?‥学びに果てを好まれず
|祈り問え、汝の学びはどこを向く?‥多様は自由に非ず道程なり
|祈り問え、祈りは支えか不自由か?‥呼吸は支えか?不自由か?
> うた詠み終わります、ありがとうございました。