↓9)向宜詠吟.2017/06/18
|一瞬の風に
さざ波花吹雪 焼津市・宇宙蕗の薹俳句会
‥ネタの「さざ波」をどう解釈するかです
花吹雪とて横から風がさらに来れば、更々とせずに、乱れるのです。
風によっては、一瞬にして向きが反転することもあるのでしょう。
それの趣を「さざ波」と詠んだように思いました。(見たことねぇ)
‥十七音では、それでも落ち着いていますが
引っぱるとなると、幾分脚色しないことには弱いかなと。
|一瞬の風で逆浪 花吹雪 まさに見る不退転のきわ
*逆浪(げきろう)‥さかまく波。さか波。また,乱れた世のたとえにもいう。
*不退転の覚悟で臨む(ふたいてんのかくごでのぞむ)
‥何があっても挫けず、決して屈することなく突き進むという心構えを以て事に当たる意。
> 人生という奴は、胡坐を掻いて桜吹雪なんぞをのんびりと眺めていたいものだが
> どうしたって想定内の風ばかりが吹くわけではない、時には逆浪にも見舞われることもあろう
> そんな時こそ、不退転の覚悟が試される時だよ
> (散る分には同じことだろうとか‥そういう事では無いのだ)
|豪快に
紫の滝藤咲けり 焼津市・宇宙蕗の薹俳句会
‥「紫の滝」着目は好いにせよ
そこからは繊細さの欠片もない。
「豪快」「咲(き)けり」‥どうにも「紫の滝」の余韻を勘違いしている。
‥まずは、「滝」なる意を打ち消して
「藤」の色合いであるとする繋ぎが欠かせない。
‥「豪快」では逆効果で
「藤」の趣と言うよりは、これから咲かせる空気に見えて来る。
静けさに誘わないのでは、どうしたって鑑賞と云うよりは宴会だ。
目の前の見事を前に、息を呑むぱっと見ではなく
食い入るカメラパーンなりズームが欲しいところのはず‥
|紫の滝に垂れこめ藤たわわ 雅の袖に支えぞありき
> 見事な藤だ‥紫の滝を垣間見るが如し
> これほどの雅にして、決して個では成り立つことがない
> 藤の見事は、実にそこを語りかけてくるようだ
> かつての栄華を極めた藤原一族にしても、京の文化と藤の如くに向き合っていたのだろう
> それこそが庶衆の支え無しでは、成り立つことがなき雅の袖としての藤(藤原)ということよの
‥ベタ褒めしている注釈にありますが
現代にまで残って来たわけですから、そこは多少大げさでも、藤の解釈として不満は無いと思います。
(まさに、官民一体の共存共栄の象徴としての「藤」に見えてきまーす)
‥でも
藤の棚が渡来文化で、藤の植物性が寄生種で、種だけが土着という
かなり異色に思えるにせよ、
現代の欧米かぶれと、あまり変わり映えございません。傾向はさして変わらないのに、
「平安」と「平成」では、まったく違って見えるのは、どうしてでしょうか?
> やはり、自然への敬意があったかどうかに他ならないように思います。
‥自然の営みを穢してそしらぬ顔では
大いなる支えを足蹴にしているも同然‥それが現代社会の不敬にあたるわけですから
その花が、枝が、保たれることなく朽ちるのが道理の途上かと。
(そうだから‥それが逆に、寄生種さながらさとして際立って見えるのだと思います)
> ‥「誰が?」って
> そりゃ紛いなりにも国民主権なんだから、現代日本人の総意ってことになるよね
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 07:09
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名句にポン/2017前半
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