2017年02月25日

【勝手句帳】083 29-2-17/2-18/2-21 静岡新聞掲載分から

↓6)向宜詠吟.2017/02/25

|初御空富士凛と聳てり       静岡市・SBS学苑パルシェ校「すんぷ俳句のひろば」(2-17)
西空に満月残し初日の出      沼津市・東部葵十期俳句会(2-17)

|富士ましろ凛と向き合う初御空 西に残月東に日の出


 *聳える(そびえる)下二[そび・ゆ]

 ‥「そびえてり」、意味不明です。それを云うなら「そびえたり」です。

 どうしてそうなった?‥書き起こし(編集側)の脱字でしょうか‥
 「そびえて居り」の省略形のつもりなら踏み込みすぎです。
 (動詞を意味不明の助動詞風に格下げしてどうするんですか!?)
 (俳句詠みには、どうにも無謀な省略表記が多すぎる)


 ‥それにしても、「富士が凛として聳えている‥」
 ベタすぎるというか、ストレート過ぎるというか、それはそれで悪くない姿勢であるにせよ
 対象が対象だけに、上から目線にも見えてきてしまう所は痛いところです。

 「富士の山は、誠以て立派である。」

 ‥普段から斯様に人に説く御仁は居りますまい。(まるで偉そうです)
 この句はそれと同じことをやらかしていると‥(しかも脱字ともなれば、倍に恥ずかしいのです)


 ‥「西空に満月残し」、古来よりそれを「有明の月」もしくは「残月」と表現していますが
 それにしても、満月にあることが前提になっているわけではありません。
 さすがに、満月のまんまるを維持して見られるかは、太陽との角度からして想像し難いのです。
 仮にその様な類い希な光景を目にする機会を得たというのなら、
 それはそれで‥「この程度の詠みで良いんですか?」‥との見られ方がされるかと。


> というところで、まだまだ推敲過程の二つをドッキングさせてみました。


 ‥いわゆるアレのパクリにも見えますが、富士山から見た正月の光景としては有りです。
 それであれば、富士の山が凛とし直す姿勢も改めて有り得る感覚ですし、
 元日の御空に、三方相対した光景が如何にも互いの挨拶回りの姿に思えます。
 誰だって、姿勢を正してしまう初御空ということです。
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2017年02月22日

【勝手句帳】082 29-2-14 静岡新聞掲載分から

↓6)向宜詠吟.2017/02/22

風花に飛び出す児等の声響き       藤枝市・新俳句人連盟静岡県支部藤枝あざみ初句会

|峰峰の惜しむ便りや風花く 気高く生きよわらい飛ばせよ


 *風花(かざはな)‥風花とは、山に積もった雪が風に乗ってやってくる現象。

 ‥冬から春へと向かう晴れた日に
 まだ雪の残る山肌を撫でて風に吹かれ飛んでくる細雪が
 ひらひらと風に舞い散る桜の花びらのようにはかなき風情ある気象。

 「晴れてて雪が舞う風花はとっても綺麗」とか‥

 ただし、「風花が降る」=「気温は低い&風がとっても強い」‥兎に角寒い日なんだそうでーす。

 http://blog.livedoor.jp/creaism/archives/50104765.html
 http://www.chubu-rips.jp/kazabana


> いやいや、そんなのまったく見たことがありません。
> ‥所謂、樹氷のそれとも違うようですが、季語ということでググりましたぜ


 ‥そりゃ、雪ではしゃぐなら、風花だって、そりゃはしゃぐでしょう。
 ネタの句は、そういう詠みですが、そんなん引っ張ろうにも見たことありませんので没です。

 (個人的に見たことない景に「山茶花」の句もよく見かけますが没でーす)

 ‥でもまぁ、ここまで調べたら詠まざるを得ません。
 でも詠み手によっては、土砂降りの雪でも「風花」と盛ってるケースも見られます。
 どうにも、統一感が得られていない季語にあるようです。
 (‥というかそもそもが方言です。土地土地の解釈の違いもあるような‥)


> リスペクトは、そこの所の理解になればと思い詠んでみました。(かなり強引っす)


 ‥もう春が来よったか
 ‥この雪を被った凛々しき姿がお気に入りなんじゃが、我等とてわがままもできん
 ‥折角だし、この消えゆく雪の使い道を考えてみたのが「風花」じゃ
 ‥若人よ故郷の雪抱く山を忘れることなく気高く生きるが良い、辛きとて笑い飛ばすが良かろうぞ




今年また臘梅香る友の庭         藤枝市・新俳句人連盟静岡県支部藤枝あざみ初句会

|今年また臘梅香る友の庭 雪ぞ残れど春呼ぶ力


 *臘梅(ろうばい)‥黄い梅。


 ‥臘梅は梅の種類だろうから、画像を拝めば何とかなるだろうと
 思ったところ、どうにも紅白とは異なり雰囲気が梅らしくも何とも無い。

 梅の梅たる力強さが「??」にしか見えてこない。(どこか悟りきった風情)

 ‥原因は、空の色と臘梅の色が
 ハレーションの関係に有るだけで無く、葉っぱが無い若しくは目立たないからのようでーす。


> そんなこんなで窮まっているところに、チラホラしていたのが雪とセットの画像っす。
> ほほう、是なら梅らしく詠めるじゃないか‥(とまぁそんな感じっす)


 ‥それにしてもネタの句は、そつなくまとまってるっす。
 (俳句としてだけで見ては、「今年」を盛るべきか否かで、意見が割れる所でしょうけど)

 ‥「今年また」が、「雪ぞ残れど」の引っ張りに見事一役買ってまして
 敢えて「今年」と盛る意図にリンクして来るのです。(雪見が前提の花でも無いでしょうから)


> 短歌でも、斯様に構成立てて詠むなんてのは、そうそうできることではありません。
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2017年02月19日

【勝手句帳】081 29-2-11 静岡新聞掲載分から

↓4)向宜詠吟.2017/02/19

|列なして一打の鐘を待つ冴えた星座の下         浜松市・槙の会

|さぁ響け、列をなして待てり除夜の鐘の一打
|いざ一打、星座の下に余韻たれ吾が元日の祈り


 ‥是は自由律ですね。槙の会は自由律のようです。

 着眼は好いと思いますが、リスペクトのように
 もう少し焦点を自分の順番が来たときに絞ってみるべきだったのでは‥

 カメラで撮るにしたって、そりゃ自分の番が来てからです。

 待ち順の時の星見がどうのなんて推敲途中の余韻です。
 自由律なんですからね、尚のこと、焦点の着目が欠かせません。




|立ち位置はこの星の上冬銀河              静岡市・のぼる句会

|立ち位置は氷上の湖 赤きオーロラ


 ‥ネタの詠みは、どことなく俳句甲子園ぽい装いです。
 どうせなら、もっと具体的にと思うところを自由律で表現してみました。
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2017年02月17日

【勝手句帳】080 29-2-10 静岡新聞掲載分から

↓7)向宜詠吟.2017/02/17

谿水の絵巻解くかに鴛鴦来         藤枝市・桑の実俳句会
|淵と瀬に軸を掛け交う鴛鴦く        参考



 *谿水(けいすい)‥渓水。谷間の水。谷川。
  鴛鴦(えんおう、おしどり)

 ‥掛け軸でも絵巻でも屏風でも団扇でも構いませんが
 そもそもが水墨画のような背景で暮らしているのがオシドリです。

 「谿水」はそこを強調して盛られています。(知りませんでした)
 ‥おぼろげだったオシドリとマガモとの勘違いに今更ながら唖然‥


 
 里山の自然観察
 

 ‥オシドリとマガモとでは、その好む生態がまったく違うのです。(驚きっす)
 私たちの唱える「おしどり夫婦」とは、どちらかと言えば「マガモのつがい」です。

 ‥そのオシドリの生態は、どう見ても群鳥で、プチ村社会を形成するかのように固まります。
 その違いから、何かとせわしなさが滲み出ており、マガモのようなおっとりした雰囲気はありません。

 歴史のどこかで、オシドリからマガモへと対象が入れ変わったのではと‥思わざるを得ません。

 ‥それの最大の違いは
 マガモは人里にもやって来ますが、オシドリは開けた水辺を好まぬ生態です。
 この差は非常に大きく、私たちが普段さほどお目に掛からない理由にもなっています。


|これやこの淵瀬に棲まう鴛鴦の村社会ざれに惜しむ仲


 *淵瀬(ふちせ)
 *鴛鴦の(おしどりの)‥「憂き」「惜し」に掛かる枕詞。

 *「憂き・憂し」‥心外な事ばかりで、疲れ、心が閉ざされるように感じられること。
 また、そのような感じを起こさせる状態を表す語
 *「惜し・愛し」‥かけがえのないものとして愛着を感じているさま。いとしい。かわいい。
 また、対象の「よさ」に心をひかれるさま。


 ‥枕詞にあったので、それっぽく詠んでみました。
 ここでの「村社会ざれに惜しむ仲」とは、村社会の暮らしにあるも離れがたきの意です。

 ‥どのように解釈すべきかは、読む人の印象により異なるかと思いますが
 日々の暮らしが大変だったからこそ、そこに村として固まる必要があったからこそ
 村社会ざれにもなるという事です。

 ‥開けた水辺で暮らすのとは違い、用心深くないと何かと難儀してしまうのが
 猛禽類の飛び交う山がちな地形での暮らしです。
 同じ水鳥でもオシドリは、どうしてかそういう生態を好んで棲まうのです。


 ‥そうです
 枕詞の「鴛鴦の」は、斯様な意味を込めて用いられていた事になります。
 私たちの知る「おしどり夫婦」の言葉に反して
 どうしたって、(「憂し」×「惜し」に掛かるのですから)相反する薄幸のような印象です。

 ‥まるで、「おしどり夫婦」の本来の意味が
 世知辛い世間を堪え忍んで、手を取り合っている夫婦を指していたかのように思えてくるのです。
 日本人であれば、「ああなるほどな」と‥思わざるを得ません。

 ‥私たちの知る、マガモのあれを見て
 あののんびりとした仲睦まじさを見て思うような、「おしどり夫婦」の意では無かったのでしょう。


> そもそも、今や私たちの知る身近に居ない鳥であって、どうして枕詞になり得たのでしょうか??


 縄文文化だったから‥山がちもまた生活圏だった‥

 ‥そういうことになりますと、平安貴族は、枕詞文化とは直接的に関係がなく、
 間接的に培われていたそれを取り入れていたことになります。(私たち同様、本来の意をおぼろげに)
 防人の人たちもまた和歌をたしなんでいたわけですから
 弥生人が来る前から、何かしらの和歌文化の元があったようにも見えて来るのです。
 (実際、歴史的にもそれ程に古くから位置するのが枕詞です)


> ‥察するに


 弥生人(渡来)の思う夫婦像と、縄文人(土着)の思う夫婦像が異なっていたので
 身近に見るようになったマガモを見て、見た目の都合の良いところだけが、
 「おしどり夫婦」の言葉に写し取られて、口を突くようになったのかも知れません。

 (弥生文化に縄文文化が取り込まれる過程で、縄文人が夫婦仲に使う言葉の鴛鴦の例えを)
 (弥生人が、身近なマガモを見てそれの様子を親しむように、勘違いして伝わってきたのでしょう‥)
 (江戸の頃でさえ、共通認識できるツールも無かったので気に止めることもなかったのでは‥)


 田が切り開かれるようになり、次第に平地気味の景観の中に暮らすようになった‥
 その後の縄文人&弥生人の子孫がオシドリを余りよく知らずに、そこを勘違いしたのでしょう。

 ‥ゆえに、オシドリの喩えの本来は、私たちが、マガモのつがいの寄り添う様子を見て
 仲睦まじいとするお花畑のようなイメージを重ねて思うのとはまったく違っていた事に成ります。


 (ある意味、解ったふりをしてしまうのは、弥生の血だったと‥)
 (逆から見れば、縄文の血は働き者、暇が苦手、ラブラブしない、生活が第一)

 ‥な〜んだ‥‥‥織り込み済みなんじゃん。

 (今や、日本人の暮らしぶりに疲れているのは弥生側の血にあると)
 (でも弥生の血は判ったふりをしてしまうので、解決できないと‥まさに大陸由来の血らしいなと)
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2017年02月09日

【勝手句帳】079 29-2-4/2-7 静岡新聞掲載分から

↓7)向宜詠吟.2017/02/09

水鳥金波銀波の湖となる        静岡市・なずな句会(2-4)


 ‥「水鳥」「金波銀波」の余韻に
 とある白鳥の画像を思い出しまして、白鳥で詠んでみました。


|白鳥や金波銀波に揺るる澪 向き合ふつがい姿まるハート


 swanheart01 .jpg swanheart02.jpg



|行く年やしづかに深き猫の息       富士宮市・湧吟行句会(2-7)

|行く年やしづかに深き猫の息 こたつに並ぶとろやかな顔


 ‥なかなかに(ニクいぐらい)、猫の寝入っている様子を捉えています。
 こちらも負けじと引っ張ってみました。




|日脚伸ぶ影のごと添ふ盲導犬       富士宮市・沼津今沢オレンジ句会(2-4)

|盲導犬ひかりのごとく添ひつれて 日脚伸ぶかな有り難き影


 ‥ネタの句が、どことな〜く腑に落ちなかったのですが

 それもそのはず、盲目の側からすれば、
 盲導犬は「光り」なのです。闇の中の救いなのです。

 「影」だと頭から思ってしまうのは、お目々に不自由しない側の言い分です。
 ‥主観に詠めているようでいて、実は、お馬鹿にも上から目線をやらかしていたと。


> まずは、そこを正しておかねば、盲導犬たちに申し訳が立たないのでーす。


 ‥それにしても盲目の側からすれば、有り難い影に違いはありません。
 (私たちの人生そのものです)

 守護霊などと‥兎に角よくわからずとも、
 つまりは、怪我をしない程度の案内をしていると言うことです。
 盲導犬に過度の期待ができないのと同じで、守護霊もその範囲なのでしょう。

 まぁそう考えると、普段から直感(合図らし)について考えていないのでは、
 守護霊からの何の通信も得られないという事です。

 日常の思考に去来する「何となく‥」の感度を研いても
 まぁ精精が、手痛い思いをしない程度の範囲と言うことになりますが、
 ‥でも、それだけでも十分に有り難いわけです。


 「人生において、私たちは盲目も同然なのですから」


 ‥宝くじが当たるとか当たらないとか、そんなのはどうでも良いと
 心が明るく開かれる方向に案内されているかどうか、まぁそういう事のようですな。
 そして、その光りたる方向にあろうとも‥道中、雨も降れば風も吹くと言うことです。
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2017年02月08日

【勝手句帳】078 29-2-3 静岡新聞掲載分から

↓8)向宜詠吟.2017/02/08

|初雪にくっきりつきし我が靴あとこの冬無事を心に祈る        富士市・富士川短歌会

|初雪くっきり足跡お楽しみ 一時あがる今ぞ突撃!


 ‥たかが初雪で「無事を祈る」とか、ちっとも初雪らしくなーい。
 (というのは、ググった先の写真を見つつ思ったことだが)

 初雪のその印象を余所に、
 どことなく「どか雪ぽっさ」に見えてくるように、心配そうに詠んでしまっては


> 初雪に申し訳がないと思わないのだろうか?
> 初雪ぐらい、ワクワクして詠むべきかと‥




|沈みゆく太陽背にしてこぐペダル燃える赤なり我をはげます      袋井市・浅羽短歌会


 ‥このネタの句の整いはとにかくヒドい。着目がはっきりしないのです。

 まず、語順が悪い。
 沈みゆく夕日は、すでに薄明かり。
 ‥そこの印象から始めては、背中に太陽が力強くあるかどうかは怪しいのです。
 ‥それゆえ、「燃える赤」が必ずしも夕日を連想するかは不明です。
 ‥語順が悪いゆえの交錯が生じかねません
 ‥そこをカバーするかのように、取って付けた「我をはげます」に同感なんぞ湧かないかと。

 さらに、「太陽背にしてこぐペダル」が判然としません。

 コーチがチャリを漕いで、学生がそれに従って走り込んでいるようにも映るのです。
 ‥まぁその辺、自転車のトレーニング中とも、どちらにも解釈ができてしまうと。


|夕日濃き影を伸ばして励み差すペダルを追いつ弱音しずみつ


 <手直し解釈1>
 夕方、自転車のトレーニングをしており、へたりそうになっているところ‥
 頑張れと言わんばかりに、夕日に照らされた自分の影がライバルのようにも見えた
 その影に映るペダルをおぼろに追いかけていると、いつの間にか、弱音もなくなり漕げていたなぁ

 <手直し解釈2>
 夕方のトレーニングで外のランニングに出た。コーチが漕ぐ自転車に夕日が射して影が濃い
 コーチが喝を入れてくるそのペダルを追いかけていると、
 自然と弱音なんか吹き飛んでしまうのです。(コーチ、どこまでも付いてきます♪)

 

 (あ☆、バイクだったか‥)35秒あたり




|月冴えて庭の白砂利光りおり心洗わる思いして見ゆ          袋井市・浅羽短歌会

|月晴れて庭の白砂利光りたる洗わる思い届くこの筋


 ‥着眼が新鮮に思えまして、整っているようにもありますが
 じっくり味わうこと‥「冴えて」は、やはり強すぎる印象です。
 あと、ぼんやりと眺めていてだんだんと白砂利に注目していく印象は、演出として勿体ない‥


> ここは、「さっ」と光りが射しきて、「はっ」と思うテンポの方が味わいがより伝わりやすいかと。
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2017年02月06日

【勝手句帳】077 29-1-31 静岡新聞掲載分から

↓9)向宜詠吟.2017/02/06

外壁のレンガの学舎冬紅葉         静岡市清水区草薙
|哲学やレンガの学舎冬紅葉         参考



 ‥この「冬紅葉」の放り込みが気に入りました。
 時期外れの漂いが、如何にも赤レンガと重なり合って、時代を遡らせる趣です。

 ‥着眼は宜しいのですが、完成度はまだまだです。
 「レンガの学舎」と来たら赤レンガの外壁が普通です。
 木造屋敷の暖炉を連想比較してそうな「外壁の」は、まったくの不用です。

 ただし、参考のように軽く手直ししただけでは、どうにも三段切れです。


|仰ぎ見るレンガの学舎冬紅葉 君よ問わね列強の壁




|駅弁のぬくみを膝に冬の旅         静岡市葵区南沼上

|駅弁のぬくみを膝に冬の旅 出会う真心開ける楽しみ


 ‥そう来たか!と唸らせる盲点です。
 (あれだけ散々プレバトで鉄道を詠んでいながら己の見逃し加減が痛くもありました‥)
 (まぁ旅もしねぇし駅弁も口にしねぇし‥見落としていても不適任相応と)




手鏡に枯葉の匂ひ冬はじめ         島田市中河町
|サイドミラー枯葉の匂ひ山路ゐる      参考



 ‥「手鏡」から枯葉の匂いがすると
 着眼は面白いのだが、「手鏡」から、さらに発想を飛ばそうという遊びがなさすぎる。
 ネタは、中途にも季重ねなんだし、そこの解消に貪欲になってもいい筈だ。

 参考は、どうにも三段切れ気味である。
 (‥よくよく考えると、このタイプの三段切れはちょくちょくありそうな気配だな)


|山に沿ひミラーに匂ふ枯葉かな 奥まる空に鼻歌ひろげ


 ‥まぁ三段切れを嫌って斯様に直してしまえば
 どうにもツーリングの気配が一気に失せて、
 歩いて来た山沿いの道にカーブミラーでも見つけたかのような趣になる。


> そのカーブミラーに、振り返ってみるような枯葉の坂道が見えていたと‥


 ‥まぁ是は是として
 スピード感の演出に、三段切れを敢えて使い込むのは技法として有りなのでは‥
 じゃないとツーリング表現には、ほど遠くなっちまうわな。
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2017年02月02日

【勝手句帳】076 29-1-28 静岡新聞掲載分から

↓8)向宜詠吟.2017/02/02

山葵田や小春日の水迸る       静岡市・満点句会

|わさび田や小春日の水ほとばしる 清らかなるを守る石垣


 *山葵(わさび)、迸る(ほとばしる)

 ‥わさびが読めねぇとちんぷんかんぷん。
 わかって貰える率が下がるのに、漢字で書く意味があるのだろうか??


> それにしても良く整ってるよなぁ‥と一本取られた感ありありの着眼です。


 ‥山葵は季語だが、「山葵田」では季語にはならず
 ということで、「小春日」がここでの季語である。

 画像検索していると、安曇野わさび田湧水群がヒットした。
 是を見ていると、伊豆のわさび田とはまるで違う。
 ‥石垣の姿を見せるわさび田が、伊豆らしさなのだと改めて感じた。




|山葵選る水の凍てりを弾きつつ    静岡市・満点句会

|山葵選る水の凍てりを弾きつつ 辛味の頃ぞ温まらるれ


 *選る(よる)

 ‥こちらも「山葵」だが、山葵の旬は春なので、「凍てり」が季語の扱いになる。
 しかし、辛味は冬の方が増すので、どれを以て季語とするかは、甚だ怪しいのが山葵でもある。
 そこの所をどう詠むかが、「山葵」の句である。(詠んだことねぇけど)

 ‥こちらは、普段目にする気配を無難にまとめてある。
 頭を「わさび」と読めずとも、おおよそのことが推理できる。
 それの意味でも、良く整っているのだが、着眼が平凡に見えてしまうのはどうしたって損。


 ‥+七七の引っ張りは
 上の句は収穫の句で、下の句は調理の句である。

 なんでも、山葵は温めると辛味が消滅するんだとか。
 わさびを擂って鍋の煮えたところに滑り込ませるようだが、天ぷらもあるようだ。
 ‥血行や美容に良いんだと。

 http://www.excite.co.jp/News/woman_clm/20160116/Venustap_1628071.html


> 温まらるれ‥助動詞「る」の已然形[るれ]詠み。(以外と早かったな)


 ‥「丁度この寒い時期が一番に辛味が強く、鍋に入れると温まります。やってみるが宜しい」
 なんて感じの意になる。

 「鍋」とも「調理」とも書いてないが、そこは空気読めというのが已然形としての向きでもある。
 ‥謎掛けにも見えるが、歌詠みにその辺の楽しみが絡まっていてもなんら支障はない。

 (支障がないがゆえに、駄句にも問われかねない訳だが)
 (ここでは「辛味の頃ぞ」として、わさびの教養にもなって良しである)
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2017年01月30日

【勝手句帳】075 29-1-27 静岡新聞掲載分から

↓9)向宜詠吟.2017/01/30

|採り終へて青々暮るる密柑山      浜松市・浜松白魚火梧桐句会

|見晴らせる海空濃くておらが蜜柑 気づけば暮るる余所見の間なく


 ‥ネタの句の云いたきを汲み取って、引っ張ってみました。
 蜜柑と言えば、海の見える山。だから、空の青と海の青で「青々」。
 着眼ごもっともですが‥「蜜柑山」と盛っては季語になりえません。

 (ツッコんだ言い方をすれば、季語からすれば‥収穫した所からただの山です)


 ‥リスペクトでは、「採る」「青」「山」を端折りました。(おっと、着眼しか残ってねぇ)

 「おらが蜜柑」と添えてしまえば、自分ちの山ですから何をしているのかと言えば作業です。
 作業ですから、特に季節感要らないわけですが、「蜜柑」と盛ってあれば収穫期です。
 ‥季語とはそういうもので、斯様な意味を担うのです。

 とは云え、リスペクトした上の句だけでは、収穫の詠みではありません。
 単に見栄え&味自慢です。(自慢もなければ収穫意欲に繋がりませんからね)
 ‥続けて下の句にて収穫の様子を綴ると。


> いやいや‥寝惚けていると見過ごしてしまいそうな「青々」でーす。
> やはりハッキリと見えた方が好いですな。(どうにも日暮れ詠みです)


 ‥苦労ぶりも伝えたいし、絶景自慢も味自慢も伝えたいし、でも、青空見てる暇もないしと
 ‥気がついたら、日短にも夕暮れになっちまってる収穫時期の毎日だと。

 なるほどなるほど、そうですよね。(これはかなり欲張りな着眼でしたが、無事クリアーしました)




|コンサート余韻引き込む冬の星     藤枝市・亀城俳句会

|ステージに瞬く余韻冬星座 かつての殿堂閉ざされけり


 *「かつての殿堂」‥ヤマハリゾートつま恋(掛川市)2016年度師走閉鎖。


 ‥ネタの句が「つま恋」を想定しているかは不明です。
 しかし、つま恋ならつま恋で、「冬の星」では的を射ているとは思えません。
 そこで「冬星座」としてみました。そうなると「ステージ」です。


> 数々のステージが催された「余韻」としての「冬星座」の印象かと。


 ‥それにしても「引き込む」‥頑張ったような感じですが
 どうしてそんな無理をしたんでしょうか??
 まぁ大方、「瞬かない星があったらもってこい」とでも意識しちゃったのかなぁと。
 と言うわけで、「ステージに瞬く」と詠んでしまえば、そんなのちっとも気にしなくてOKです。


> ‥それにしても、芸能界音楽スルーの俺が、まさかの「つま恋」詠みとは。(有り得ねぇ〜)
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2017年01月28日

【勝手句帳】074 29-1-21/1-24 静岡新聞掲載分から

↓4)向宜詠吟.2017/01/28

この寒さ六根清浄の気が満ちて身のひきしまる一人の部屋に    浜松市・アカシャ短歌会(1-21)

|冬将軍「六根清浄」声デカく 雪まるサハラ緑まるやも


 ‥「六根清浄」寒波に迫られる寒さの中、部屋の中でふと思い浮かんだと
 狙いは面白いと思いますが、どうにも部屋から飛び出した発想にすべきかと。


> 今冬は、世界中で風変わりな状況が起きているようです。


 サハラ砂漠やアラブで雪国並の積雪が起きたり‥まぁ色々と
 地球環境の激変が催されているようです。

 (夏に起きた太陽コロナ&フレアの爆発の影響があるのだろうか?)
 (方角的に、概ねその辺りを通過中にあるんすけどね‥)


 ‥砂漠が急激に緑化した後に、野生の大移動が起きれば是は本格的で
 そのまま緑化ぱしって、どこかが崩壊し始めるのが辻褄に思われます。
 そうでないと、今冬のような冬が、毎年のように続くという事に成りかねません。

 (地軸がひっくり返るよりは影響が小さいのでしょう)
 (‥まさかの人工的な気象操作をやらかしていたりして‥)

 欧州を襲っている寒波が2〜3月になっても引かないようなら
 ‥今年から来年に掛けて、サックと飢饉も有り得ます。小麦の値上がりは避けられないでしょう。

 (小麦一ますは一デナリ。大麦三ますも一デナリ。オリブ油とぶどう酒とを損なうな)
 (パン屋は麦にこだわらずに、さっさと国産米粉パンに慣れといた方が賢明かと‥)




咲く椿さかぬ椿の道よぎり今日入院の友見送りぬ      三島市・銀杏樹の会(1-21)

|咲く椿咲かぬ椿の道よぎり 残しき思い多けれこそと


 ‥確実に、句会を三つは掛け持ちしている勉強不足の選者の詠みでーす。
 (今回はなかなか、三つは掛け持ちしている片鱗をそれなりに見せたかなと)


> リスペクトはこんな解釈になります


 ‥人生、寒い時期に咲かす椿の花のように
 ‥皆一様に咲かすという訳でも無く、まばらで、栄枯盛衰に見えるものである
 ‥中にはまったく咲くところの無い足取りもあるのだろう、私たちの暮らしはそんな道半ばだ
 ‥仏の教えは、そんな生老病死の世界に思い残さずを唱えてはいるが
 ‥それはそれでどうだろうか?
 ‥人として生き抜こうと腹を括れば、どうしたってそういうわけには行かないのだ
 ‥付き合いが手広ければ、それだけ思い残すことも多くなるのが当然だ
 ‥ならば、思いを減らすべく煩うよりは、自然と多くなることに、なんぞ戸惑いなぞあろうか?
 ‥仏にしたって、そこは同じだろうに
 (そうでもなければ、どうして仏としての教えを残そうとしたのだろうか?)
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posted by 木田舎滝ゆる里 at 22:39 | Comment(0) | 名句にポン/2017前半 | 更新情報をチェックする