2021年01月19日

【基本的生活力の互為】富国強兵時代の教育観VS多様化個性化時代の教育観

記稿.2021/01/19

> 国家同士の交易戦争がある限り、富国強兵時代の教育観はあり続ける
> 国家同士の交易が手広く加速した結果、多様化個性化に対応した教育が求められている


 ‥国家同士の交易の在り方が、世界中の教育需要に影響を与えている点に疑いはない
 ‥兵士文化を捨てない理由として、外宇宙生命体存在の善悪の是非を抜きには語れない
 ‥未だ人類には、その手の緊急時における運用ルールが定められていない
 ‥大抵の人らは国連が対応するモノと思い込んでいる(というか外宇宙生命体など論外の剣幕だ)


> 交易を活発にしていこうとの連動で、言語能力の需要は高い
> だがしかし、世界中で言語を統一しようとて、方言の発生は避けられない


 ‥どうしてその共通言語の本場だけを「ネイティブ」としてもてはやし
 その土地柄感(言語感覚)だけを正統的に扱わなければならないのだろうか?
 それでは、基本的人権を掲げているなどとは、とても表現には値しない文化観だろう

 ‥ネイティブが拒絶しがちな和製英語はとくにそれで、国毎での方言発生をにおわせている
 それでいて、そのネイティブのセンスとして代表的なのが、コネクターのマスターとスレイブだ
 主人の代替としては、奴隷では無く執事とした案もあろうはずなのに、そうに無い
 (アニメマンガでは、富豪の私設軍隊を指揮するのは有能な執事と相場が決まっている)
 一体全体、どういう言語姿勢にあるというのだろう、不愉快なほどに異様だ
 そんな言語をどうして根から葉まで学べるというのだろうか?(怪しすぎるだけだ)


 ‥そもそもの交易からして
 駆け引きありきで、嘘は常識で、其を見抜くのが勝負の醍醐味などと言っていては
 言葉の使い方の裏が求められて発生するばかりで、糞どうしようもない


> その点、数学や物理の類はどうかというと、最先端な課題になるほど意見が分かれる
> つまり一般教育としての範囲は、所詮、全体の基礎要素とした一部にあり続ける


 富国強兵とした国家競争を前提にした教育の場合
 その制限の範囲とやらに、支配に気がつかれない為とした黒線枠が付く
 その結果、夢も希望もなく行き過ぎた搾取に国家がハマっているのはどう見ても犯罪だ

 一方、多様化個性化とした個の才覚に配慮しようとすると
 無駄に専門職化してマニュアル化できない
 そもそもがマニュアルに収まらない才能発掘が目的なのだから当然の流れになる
 なのに上手く行かないと、モンスター親の発生では、義務教育の定義など据え膳である

 (詰め込み型ほど単純で、若い頃にもっとやっておけば良かった論は有りがちだ‥とくに数学)


 ‥そもそも多くの親にありがちなのが、自分と同じ苦労をさせたくないとした決まり文句だ
 その手の願望の多くが、節操の無い国家のお上をお手本としてしまっているのでどうしようもない
 (胡坐を掻いて生きてみたい、他者をアゴで使って生きてみたい)
 (隣の失敗に逐一剣幕を立ててるタイプが上に立つって事は、隠し事ありきでどうしようもない)
 (その手のいい加減さを正せないのに上に成れるわけがない、そうで無いならお家主義ありきだ)

 ‥少し時代が下ると、自分と同じような寂しさを味わいさせたくない‥に変わっているはずだ
 それにしたって個性化多様化の排除など眼中に無い
 よって、それの影響による少子化に歯止めは掛からない

 つまり、多様化個性化教育は競争過多に勝利する為の考えでしかなく
 結果、多様化個性化を推し進めるほどにぼっち嗜好が発生し
 マナーの悪い民族性へと邁進する要素になっている


> 世界で一番に人口を抱える国家がぼっち政策をやらかした結果は、まんざら伊達では無い
> (統計学的な回答など、すでに晒されて来たも同然だ‥その結果が地球環境悪化の加速だった)


 ‥そして最大の矛盾は
 詰め込み型教育の勝者が教育方針を決めざるを得ない政策環境である
 彼らは、自分の頑張り方と能力に、絶対の自負があり
 それ以外の遺伝子環境の存在性に目を向けたがらない脆弱性を有している

 つまり可能性について徹底的に議論し合う性格には無いので
 (有利性の有利を追求するだけの片寄った好奇心しか発揮しえない)
 (ゲームマンガアニメにしたって似たような傾向で、根から葉まで脆弱性を有している)
 そのような傾向に則した教育策にしか仕上がらない
 (なので、教育格差の改善など夢のまた夢とした連鎖が発生し続ける)


> なので、教育論において正当を得られる視点としては
> 当人のやる気を引き出せるとした鬼才のみであると断言できる


 ‥如何にして児童から学生まで、自ら好んで詰め込み教育に参加したくなるか?
 が第一の要求であって
 第二の要求が、そこから如何にして独創的な自我の渇望に目覚められるかになる

 (詰め込み教育悪の展開しかやらかせていないうちは無理っ)
 (基礎も土台も無いのに、個性なんざ有り得るわけがないッ)
 (あったとしたら、前世ありきとしか説明のしようがない)

 ‥宇宙的には、そこからさらに第三の要求を求めてあるようだが
 そこはとんでもなく気長になっているので、第二段階までの調整をまず求められているとして良い



posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:21 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

【基本的生活力の互為】教育の用と教育不在に感ずる悪観

記稿.2021/01/19

> 投資側にはノウハウが無い、有するのは常に「エネルギー=資本」だけで有る
> 宇宙がこのような状況なら私たち人類だって似たような問題を抱えている、それは何か?


 ‥投資家が投資をするのは見返りの要求だ
 見返りをもたらさない投資先は最悪であり、社会性の劣化などさらにありえない矛盾だ

 そのような状況をもたらす案件は、社会的にも排除しても差し支えない

 投資家にとっての是非観とてその程度であり、宇宙とさほどの差が見られない
 (但し、サプライチェーンを無視してまで強烈な排除はありえない)


> では、社会性に悪をもたらす基本的劣悪例を考えてみよう


 例えば、ノウハウを持たない案件に投資がされたとしよう
 当然、ノウハウを持たなければ
 請け負った側は「中抜き」してどこかに依頼内容を丸投げするしかない
 (それこそが資本×能力主義者側の真骨頂と言える)
 当然、ノウハウが無い顔をして取引をしていては、直ぐに手が回ってしまい兼ねないのだから
 取次先もお互いに旨い汁を吸い合うだけ関係の維持を目的としてやらかしかねない

 ‥そのような案件の末路の多くは
 最終的に苦境に陥っている且つそれなりにノウハウを持つ会社が引き受けるかもしれない
 (それこそ手抜き三昧に終わるだけである)


 つまり、そのような社会性の実態感として
 「経験者のみ優遇」とした慢性的な社員募集の蔓延は相当に危機的だと判断できる


> では、今や丸投げしかやらかしていない行政体質はどうだろうか?


 国民から吸い上げている税金を投資として考えた場合
 国民はノウハウを持たない組織に投資をやらかしている構造として見立てることが可能だ
 競争入札とか何とかと抜かしても
 雇用創出とか何とかと抜かしても
 自らがノウハウを持たないのにそれをやらかしていては、中抜きでしかない

 政府・行政・議員‥‥そもそもが、中抜きの実践状態でしかない
 (中抜きの実践業態をお仕事と呼んではいけない、それは泥棒である)


 ‥其を正当化する為の重要事項とは、即ち教育である
 それも無償であるとした方向性で、まぁまぁのホップである
 成績優秀なら給与も出るぐらいが、主体学習(自己研鑽or研究)に励めるステップとなる
 だが、ジャンプを目指すなら
 安定的な生産環境の創出としてもベーシックインカム発想の加味は求められる

 そのような社会的構造を互為に約束し合ってこそ
 その手の政府には、ようやくにノウハウの余地が発生するのだから
 競争入札とて、民主体として正当化できる中身になる


 当然、国民としても学ぶ姿勢を欠いていては、成績不良どころの話ではない
 中抜きをやらかしているのと同質に見られたって無理からぬが自己責任になってくる


> このような段取りすら不明に陥っているのが、現状でのベーシックインカム論争だった



posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:21 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

【基本的生活力の互為】宇宙を投資家と見立てた場合の是非観

記稿.2021/01/19

> 宇宙を投資家と見立てた場合、宇宙はなぜ生命に投資をするのか?
> そのような過程において、宇宙が投資に失敗したと判断した場合になにが起こりうるのか?


 ‥宇宙が生命に投資をする理由として、宇宙にはノウハウが無いからと仮定してみよう

 宇宙は常に闇であり、光を創造し得たとて、未だ直ぐに消えてしまう欠陥的アイデアのままだ
 宇宙にできることは投資であって、それの活用なり応用をどのように具体的に形作るかは
 自らのアイデアによって発生させた分身的役割存在(生命もしくは道具)でしかない

 宇宙の選んだ投資案件の中身が細部に向かうほど、生命要素は切り離せない道具になった
 (だがしかし、道具を使いこなすには、道具を使い続ける必要があった)
 (結果、宇宙は道具の成長を見守らざるを得なくなった)
 (だがさらに、道具が道具を創り出して用いるとした入れ子式構造と化した)

 つまり、宇宙とて生命に関するノウハウとしての体系を完成して有しているわけでは無い
 つまり、道具が新たな道具を創り出してしまうことから、宇宙にはノウハウが無いままだ
 (そのような状況が輪廻し続けてしまう)

 ‥いくら宇宙の側に無限の投資的エネルギーが有ろうと無かろうと
 無限に輪廻してしまう上に、使いこなせない道具の発生件数ありきでは、無能に等しい
 何ら具体的にならない宇宙像としての姿に変化など無いと表現できる


 ならば、宇宙が投資をする動機としては
 自身の有り余るエネルギーを以て、退屈しのぎ程度の遊びと同質程度の好奇心からとなる
 (子供の遊びから無茶な科学者の好奇心まで‥と大して差の無い段階に当たるのだろう)

 ならば、宇宙が疲れたら、飽きたら、匙を投げたら
 その宇宙は何事も無かったかのようにリセットされるだろう

 ‥リセットばかりというのも芸が無いとした宇宙の粘りが有れば有るほど
 戦争状態を用いてでもやらかす不要素排除判断も有り得る
 そしてそれは日常的に道具の側がやらかすことにもなり、その手の保安を要求する負荷が増す
 (少なくとも、私たちの宇宙において其は日常的であり、そのような段階である)


> 途中経過の投資家は、宇宙も含め、常に開き直って見守ることしかできない
> 投資家の破綻もしくは排除判断は、生命または道具にとっても同じく残念であるだけだ



posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:09 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年12月25日

【ツッコミ隊】富裕層頼み商売VS大衆人気頼み商売

↓3)記稿.2020/12/25

> 富裕層頼み商売とは、消費対象が富裕層前提ということであり
> 大衆人気頼み商売とは、大衆に受けるかどうか頼み前提ということである


 ‥人類最大にして慢性的な偏見こそ職業選択の自由である
 まずおおむね、苦手or嫌いな要素を排除してから選ぼうとするのが心理である
 苦手はともかく、嫌いな要素には大した理由なんてなかったりする
 つまり偏見だ
 ‥そもそも、暮らしに求められた要素に好きも嫌いも無い
 あるとしたら偏見だ(誰かがやれば良いと思ってさえいる)
 それを担う人への誹謗中傷にすぎない
 どうしてこの大問題が取り上げられずにジェンダー程度を持ち上げているのかが謎である

 ‥儲からない仕事には就きたくない
 ‥異性が振り向かない仕事には就きたくない
 ‥黒い仕事には就きたくない
 ‥地味な仕事には就きたくない
 ‥拘束の多い仕事には就きたくない

 これら無駄に思い込んでしまう要素を改善せずに
 勉学に励んで頑張れば、良いところに就職できるとした動機的構造を
 保守してしまってるのは、他ならぬ政治である

 (其を改善せず怠慢なら、どんな社会だろうとほぼ100%行き詰まるのが流れだ)

 政治が怠慢でなんにもして来てないのに
 不公平ありきの能力主義を翳しているのは、明らかに不可解しい
 だが競争大好きにも同意しまくって来たのも、机上の勉強が得意な連中の成果でもある
 なにが成果主義だろうや

 (行き詰まりを加速させてくれちゃっただけなんだよ、糞野郎ッ)


> 私たちの暮らしは「職の偏見」に育てられながら、改善を果たさなければならない
> それがどうしてジェンダーとか女性の進出とかそういう回りくどい改善目なわけ???
> (そんなのは本質から目を遠ざけておく振りでしかない)


 ‥そこはともかく、商売とした視野だけで見るなら
 支持なり人気を得られなければ儲からない‥それだけの中身だ‥
(てめえの不人気ぶりを仕組みのせいにするなってのが基本的な偏見として根付いている)

 その中身を単純化すると

 富裕層頼み商売VS大衆人気頼み商売として表現できる
 貴方はどちらよりからの攻めを好むタイプだろうか?
 商売が嫌いで公務員になったとて、どちらよりの対応をしてるかの課題色は大いに付きまとおう
↓/続きを読む/↓
posted by 木田舎滝ゆる里 at 10:54 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年12月23日

【命題】朝令暮改VS武士に二言は無い

記稿.2020/12/23

> 朝令暮改(ちょうれいぼかい)
 朝に命令を出して夕方それを変えること。
 法令が出てもすぐあとから改められて、あてにならないこと。
> 武士に二言は無い、武士に二言なし
 「二言」とは、前に言ったことと違うことを言うこと。また、その言葉。
 現代では、「男に二言はない」という言い方が生まれ
 更に「女に二言はない」という言い方もある。(‥そうです)


 ‥双方どちらも、お上のプライドの在り方が問われており
 こまめに伝達する方が優れているのか、それとも、直球勝負観よろしく一発発言が良いのか
 という解釈すら曖昧にして、全部お上のせいにしたい空気を醸し出している

 ‥批判力に富んだ物言いも宜しいが
 お上に期待したい気持ちにしたって、どこか糞すぎる

 とくに、朝令暮改ならまだましだろう(良い方になるように変えてあったなら)

 戦場で退くべき時に退かせずに、押すべき所で押さずに
 「懸かれ」を発するのが大御所の仕事だからと一発に決め込んでいたら、そりゃ不可解だろう
 そういうマヌケをわざわざ国民一丸となってすすめている言葉でもある

 つまり、戦下手な諺の類である

 その良い例となってしまったのが「GoTo」ということだろう


> お陰で、戦を知らない時代の糞くだらないお上のプライド様式と化している


 お上が下々にお願いするのを下手くそにしていては、民主社会も糞も無い
 お上がお願い下手だと、下々もお願い下手にならざるを得ない

 結果、お上然とした理想型を持ち出して
 一心に批判するのが最もらしいとか何とか‥

 それってつまり、下々が馬鹿だから臨機応変に何て無理と訴えている様相でもあるわけである

 だから、双方でお願いのタイミングやら日常の阿吽が丸でなっていないのに
 諺としての表現はもっぱらお上批判というマヌケぶりだ
 その昔より、ずっと知見が高いはずなのにその程度なのだよ(私たちの民度は)


> 最もお上のお願いの多くが「増税」では、知恵無し期待せずなのだからどうしようもない


 しかし、なんだかんだと細かくない態度が嫌われていて
 考えた挙げ句が、ザル法三昧とか
 「役人に二言なし」‥つまり「役人謝罪せず」としたどや顔然では、開いた口が塞がらない

 ならばいっそうのこと

 「糞に二言なし」と改編した方が、まだまだ洒落が効いていて冷静さを保てそうだ


> ところで、庶民が「朝令暮改」を忌み嫌う理由とはなんだろうか?


 ‥そりゃ商売での影響が大だからだ
 今どきなら株価のインサイダーの疑いだって湧いてくる
 (そういう小ずるいところのシンクロ率は同じって奴だな)
 つまり国体として、こまめな旗振りができない国家体制でしかないとしたオチでもある
 つまり国体として、こまめな旗振りを望んでいないのもまた国民の方だったのオチである

 つまり国体として、国民が望んでいるのは「懸かれ」の合図だけで「退け」の聞く耳無し症候群だ

 (なんとまぁ立派に日本人好みの諺なんだなあと思わざるを得ず)


> 「武士に二言なし」と言えるほどの指導力期待は、糞なので
> 私たちに選択できる方向は、如何にして、朝令暮改を普通に対処し得るか
> 対処可能せしめる上での社会適改善に必要な要素とは何か?ということである


 ‥どちら様も、十分な補償なり報酬を先に提示しない戦争論に参加しちゃう時代でも無いんだから
 ‥補償を先に提示しない政策に用は無いとして、キッパリとした姿勢を示すべきである
 (まともな指導力なんて期待できない前提なんだから、そりゃ補償ありき当然だよ)
 (そしたらもうお互いに創造補償しか選択支が無いと言う事です)


 ‥今までは、まともな指導力をどんぶり勘定にしても成り立っていたと言うだけの話
 科学知識を兼ね備えた指導者の登場でもない限り、文系にはわからないことだらけなんだから
 まぁそういう見方が必然となる

 (そもそも庶民が、科学知識力の差で立候補を選べる民度なんか持ち合わせてないんだから)
 (朝令暮改ありきを受け入れられる社会適余地が求められて当然だ)
 (コロナワクチン騒ぎは、とくにその前例になりそうな空気である)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 12:00 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年12月11日

【つっこみ隊】政府に求められる内訳を分離すると‥

記稿.2020/12/11

> 物々交換の延長(交易)の用により安全保障が拡大してきた
> つまり、そもそもの政府構造が安全保障ありき脳に片寄るとした症候群だった


 今の三権分立脳構造では、十分な生活保障は機能しない
 今や安全保障の対象は、納税やら献金云々の言い分から富裕層前提にすり替わっている

 されど、餅は餅屋だろうから

 安全保障部門と生活保障部門を分離してしまえば良いの発想になる
 (武闘派と学者派で分かれてそれぞれを議論するような感覚か?)

 ‥議会が二つも要らない考えがあるにせよ
 それぞれで議員を選抜する選挙を求める次第は変わらない


> そもそもにして、得意分野が違うのにテーマ混在で選挙をしては能が無い
> 学者派は防衛予算拡大の反対役で、武闘派は生活議論のド素人だってのは分かりきった話だ


 (学者派と武闘派で暮らし向きを多数決でやりあうのは非効率)

 この分離を可能とするには、立法の案件を二種にして
 同時並行でやらかすのが流れになる

 すると、立法議会が常に二つ必要となり
 どちらで議論するのがより相応しいかを振り分ける為の法案振り分け委員会の設置が求められる

 行政までを分離してはややっこしくなるので
 そこは、省庁管理を二手に分離して請け負うにせよ
 閣僚会議としてのお膳立て等はどうせ必要なので
 閣僚としての形は一つということになる

 父役と母役を設けて(ねじれ顔合わせありき)、互いに話し合いながら進める形ということになる
(最終的な決断責任をどちらが請け負うかとした選別を先にしておこうということになる)

 予算絡みの文民統制など、所詮、幻想的で言葉遊びでしかない
 そもそもの予算立てからして、閣閥の段階でほぼ決したも同然なのだから
 与党と野党の意味合いからして、非効率的なのだから分けてやりゃ良い


> 二大派閥政党うんぬんを持ち出すならそういう形の方が日本向きに思われる


 これを税予算の視点から鑑みると
 生活保障は創造予算でやって、安全保障はそれこそ税収でやれば良い
 生活補償に的を絞った創造予算ありきなら
 安全保障に的を絞った税収も無理なく試算できるだろう

 (予算案審議に掛ける手間を随分と減らせる事になる)

 立法での闘争は夫婦の喧嘩みたいな構造でしかないのは分かりきった話で
 そんな状態が国家に幸福をもたらすわけもないのは、国家として家庭の縮図でしかなかった

 お互いに自由にできる立ち位置と財布の勝手を分けた方がスマートになるのは同じはずだ


 (まぁどうせ‥新しき悩みの種が登場するに変わりはない)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 07:12 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

【つっこみ隊】物々交換でも資本経済でも、安全保障ありきでどん詰まる

記稿.2020/12/11

> 経済とは、そもそもにおいて豊かさの交換だったはず‥


 ‥誰だろうと、ツケや借金との交換は受け入れがたい(物々交換なら尚更にありえない)
 「これは、いついつの借り分です」
 とした物々交換をやり合うだけの記憶力を当てにした日常からして、そそらない


> 物々交換のそもそもは、その時の気持ちを表現するところに信頼形成の醍醐味がある
> お金とした概念はそこを一気に覆す‥だからどこか懐疑的な心理が付きまとう‥


 ところが、物々交換にも弱点がある

 物々交換の場合、似たようなモノと交換してもしょうがない
 誰もが持っているモノだと格好が付かないとした心理も付きまとう

 だから、より多くの豊かさを求めると
 途端に地場では得られない幸を求めて「搬送距離の発生」が課題になる


> 交換できるモノだけがあっても交換できないオチは
> 資本経済下での在庫リスクと似た性質だ
> だが貨幣概念に疎い時代では、備蓄発想だったので、穀類は依然人気だった


 一般に、交通の便を得るには、技術と協力と安全の確保が必要となる

 単純に言うと、「統制概念」の発生だ
 それは、労役を得る上での協力(年貢)を求めた理解だった

 だがそれは、強奪等による運搬物の損失を防ぐ為の人員確保がより多めになる流れだった
 結果、交通の便の確保までが目的だったはずの協力は
 当初の予想を超えて、治安としての関所拡大へと及んだ

 (なんだかんだと‥役人仕事の席増による年貢の徴収が続くオチだった)

 つまり、物々交換から始まった地産地消は
 豊かさとの交換を求めれば求めるほどに、幻想を帯び
 中心組織たる権威づけを孕む流れを生むのだった

 (挙げ句の果てに死の商人などという武器商人の登場が、近代戦争に至るまでの誘発を促した)


> ならば、貨幣登場に遡る資本経済が、ますますの中央集権構造にハマるのは当然だった
> では何故、豊かさを求めれば求めるほどに中央集権構造にハマるのだろうか?


 ‥それは豊かさの交換をする為には、安全保障ありきだから
 其が求められる大きな要因は、ダントツで泥棒だ
 泥棒がいるから権力が特化的に台頭する

 現象として、豊かさ追求と泥棒と権力はセットという事になる


 ‥だが、今やこれを当然と思ってはいけない
 権力を裏付けるのは武装であり、泥棒をその気にさせているのも武装である
 武装による正当性を裏付けのは法律であり、それの製造と販売を認めているのも法律である

 権力者の椅子を安泰にするのも武装の度合い(イタチごっこ)というわけだから

 武器製造と販売の自由主義傾向ほど、特権階級の保持に貢献してしまっている要素も無い
 もとい、武装を使いこなす適性が、権力に操られる傾向にこそ課題がある


 ‥権力者が武闘派で、且つ、戦闘集団とした組織体なら
 まぁ実際の実力差なんで、それが存在する事自体、頭下げてお願いしているようなものだから
 文句を垂れる中身には無いわけだが

 今や、基本は雇われだから 
 命令前提とした形に、権力者に実力の錯覚を与えてしまう要素は否めない

 結果、人権主義に反した横暴を、権力側がやらかしてしまう増税等による泥棒化は痛々しい

 そしてそれは、豊かさを求める市民側にも発生するとした始末になっている
 経済を競争させるから、その手の入れ子式心理構造群を誘発するのであって
 本来は豊かさの交換だったはずなのに、なぜか目的がすり替わってしまうのだからおかしな話だ


> そもそもの物々交換にしたって
> そのはじまりは交換できるモノありきだ


 ‥交換に値する何かの要求がハイレベルになって行くと
 当然として、交換不能に陥ってしまう人民の比率も高くなる

 そこを競争だからと納得ばかりのおつむでは、格差の誘発を了承した有り様でしかない
 その現象として、確実に格差社会は拡大し続けている

 そうなると当然として、補償するのが人権主義としての立場になる
 補償するのが嫌なら「競争止めますか?」を唱え始めたとしても不思議でも何でも無い

 これはイタチごっこなのだから、競争の仕方を改めないと
 どんだけ補償を配ったところで切りが無い
 何も考えていないとその切りが無い事だけが鼻に付いてくるので反対派と言う事になる


> 能力主義に賛同しておきながら、実は、その先を思案する能力不足というだけの話だ
> 能力主義とて、必ずしも人道主義とは限らないとした言葉の綾を肝に銘ずるべきである
> (それは物々交換にしたって同じことだ)



posted by 木田舎滝ゆる里 at 05:10 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年12月01日

【詩】権利と義務VS責任と義務

向宜詠吟.2020/12/01

詰まらないから引け目を感じる
楽しいと有頂天にも自惚れる
これがヒトの脳内で行われる自己評価のトポロジー的陳腐化である
(幸福感と不幸感の二極化する分かれ目である)

詰まらないにも、楽しいにも、そこに現象としての価値に差なんか無い

そこに価値の差がある思っている人格や世界では、公平感を勝ち取る事など無理
(人権視野において、男と女に差が無いはずだと思っているなら尚のことだ)

誰にでも等しく光なり、水なりとした勢いや鎮まりを性質として有している
その有しているとした事実の尊重こそが大事で、現象においてどうであるかと言う事では無い


ならば、差があると思っているそんな脳みそには、「うんこたれ脳症候群」を翳すしかあるまい
誰だって‥うんこをせずにはいられない造りになっている
それはつまり、うんこ自体に善も悪も無いのだ
悪があるとしたら‥諸処の問題に対して、十分なトイレを用意できない脳にこそある
ヒトの文化を尊重するためにあるのが人権保障なら尚のことだ
つまり、うんこたれ脳症候群とは、共有理解を得ようとしない&得ぬ症候群という事になる


「どちらが正しいかでは無い、必要なトイレのあり方は何か?」‥なのである


‥これの理解に乏しいと
ついつい「権利と義務」とした錯覚をやらかすことになる

国民主権を語っているのに、どうして中央集権化がされてしまうのだろうか?
どうしてそれが圧倒的に当然とした見方に呑み込まれてしまっているのだろうか?
どうして納税の多寡が、人格の評価にまで及んでしまうのだろうか?

「どう考えたって不可解しい」


‥ならばここに、高らかに声を挙げよう
中央集権なんて無い、中央責任があるだけだと
それが国民主権としての民主社会の定義なのだと


「権利」酔いしている糞野郎共がやらかしているのは、納税の義務である
そのくせケチケチとした保障をやり合うだけで、環境破壊を同時に推し進めたうんこたれだった
安全保障だけであとは首が回りませんとしたうんこたれ脳だった
その挙げ句の果てに増税だった

それで一体どれだけの幸福が創造されたというのかね?
どう考えたって不幸感の創造の方に片寄った
どう考えたって違憲信仰だった
あれらこそが反社会規範だったのである


‥もう一度言おう
「中央集権なんて無い、中央責任があるだけだ」


そうだ、人権を公平に取り持つ上での責任権があるだけだ
それが果たされていないなら、納税の義務の要請を語る資格などない

納税の多寡で無能有能を評価し合う風潮にしたって
そんなの憲法のどこに示されているというのかね?

そんな文言があったら、人権尊重にならない
なのにどうして能力主義が横行するのだろうか?
なのにどうして能力主義を信仰するのだろうか?
そんな脳では、自ら民主社会をすり替えてきただけであろう


‥足りなかったのは何だったかと問うなら
競争を互いのモチベーションとして譲れないのなら
環境破壊をやらかさない上での公平を整備しなかったという点に尽きる
生存権としての最低限の補償を有さなかった点である

つまり「無償融資」
もとい「創造補償たる仕組みの公平整備」
もとい「諸問題へのトイレ思考」だった

そこに責任を持つことこそ、民主社会を練り上げる上での創造力と為せるのだ



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 13:04 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年11月29日

【詩】経済競争はうんこたれの如し

向宜詠吟.2020/11/29

うんこには、臭いし汚れるし垂れっぱなしで良いことは無いからとした理解がある
うんこには、それだけの説得力がある

面倒くさいからと、やたらそこらにうんこを垂れぱなしにしていても
其を自分が踏んでしまうお馬鹿さも付きまとう
なんだかんだで、トイレたるマナーを身に付ける
そうなってくるともはや
うんこたれは恥ずかしいしから、誰もうんこたれをやりたいとは思わない
うんこには、それだけの説得力がある

なのに

ヒトのやらかす競争はうんこたれの如しなのに誰もそれを厭わない
その極まった良い例がトイレ無きマンション運営だった(原発)
使えば使うほどにうんこたれ現象が進行して行く核廃棄物を誰も望まないのに
政府が一丸となって垂れ続けるそれは、どうしたって「うんこ」とした象徴だ

「このうんこたれがッ」

そんなうんこたれどもを担ぎ上げてきたのも、経済競争ゆえである
日々の暮らしの底辺とは何かと問えば、それはうんこの処理だ

うんこの後始末を考えずに競争なんてやらかすから、色々としたトイレ無き惨状を招く事になった

そうなってはもはや、お互いに罵り合うしかない
だがしかし、世間そのものがうんこたれを担いできたのだからどうしようもない
誰も色々としたうんこの掃除科学を育てて来なかったのだからどうしようもない

うんこたれどもを褒めたたえてきたのだからどうしようもない

科学のやらかしそのものが、経済競争のやらかしと同義だった
科学は人類を文明人に導いただろうか?
経済競争の末に手にしたのが「うんこたれ爆発」では、とてもとてもクサすぎてお嗤いだ

「このうんこたれどもがッ」

トイレを用意できてこそはじめて科学者なり有識者を名乗れるのであって
トイレを用意し得ない似非科学の推奨は、どうしたって「糞野郎」である

「糞野郎どもがッ」



> うた詠み終わります、ありがとうございました。



posted by 木田舎滝ゆる里 at 11:29 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする

2020年11月26日

【上から目線】力こそ正義VS.ねぎらいVS.世話好き

記稿.2020/11/26

 ‥自由主義社会観において行われるヒトの勝手と言う奴は
 自分の立場を普通より上位に据えおいておきたいとした配分差別を前提にしている

 自分が上位なら、分け前をより多くしたとて差し支えが無いとした暗黙の了解だ

 どうしてこのような世界観が共通して成り立ってしまうのかといえば
 そこには「力こそ正義」とした野蛮だった頃からの習わしのままを踏襲しているからである


 ‥とはいえ今や多少は文化的になったので
 力尽くでは行わずに、契約を介するとした点が、自己責任論に結びついているわけだが
 契約の遂行義務が果たされていると、契約に沿った配分を行われなければならず
 そこで経営赤字をやらかしたならば、それはそのままに経営側の自己責任として双肩にのしかかる
 (とはいえ、雇用側にしたってクビ同然とした会社の倒産では身も蓋もない)


> 個人の勝手ではなく、経営とした観点から自由主義を論ずるなら
> 経営赤字を経営任せにしているお仕事観は、どうしたって組織にとってドブネズミ然だろう


 ‥というのが、今どきのすっかり資本主義に染まっちまった日本人の感覚だ
 &分け前にしたって、下にはケチケチ振る舞いのお家主義傾向でどうしようもない

 つまりこの段階でのお互いの立場は、赤字なり不景気をやらかしてしまている時点で
 だからもっと頑張り合いましょうと言い合っているわけだがら
 どう考えたって立場は対等だ、対等だから、道連れ破産とした流れにもなる

 そして、対等に映ってしまうからこそ、同一賃金であるべき論の方に支持が出る


 ‥だがしかし
 なにゆえに経営の志を立てたかと言えば、自分の立場を上にしたかったからだろう
 それが誰しもがやらかす思考だろう
 そのふざけた思考のそもそもは、実力があるかもどうかも分からない内から
 「脳内勝ち戦」だったという事になる

 そして、撤退時&敗戦時において如何なる姿を見せるのかについても
 どうしたことか‥ただのマヌケでしか無かったというのに
 殿様気分のまま、部下を殿(しんがり)にして見逃して貰えると思い込んでいる
 「脳内お殿様」だったという事になる


 ‥つまりどこの契約書にも
 営業売上の芳しくない際には、賃金を公平にして扱いますとした一筆が無い
 そりゃそうだろう秘守要素が絡むし、自分の立場を上としか見ていないのだから
 そんな契約書を作成できるわけがない
 さらに言えば、自惚れてる新人ならそんな契約書を見ただけで、内定破棄を決め込むだろう

 (折角にお世話になろうというのに、もとい、甘い汁をすすれると期待していたなら尚更だろう)

 ‥有能と思しき新人に頭から逃げられてもお話にならないからな
 まぁ、その時点で逃げ出すぐらいのクズならはじめからいなくて清清だろうはずだけどな‥


> そもそもにおいて、このような普通より上で居たいとした根性の根っこには
> その頭から偏見と差別と独り善がりがこびり付いたままだ
> それはそのままに、お世話にあやかりたい、お世話されたい症候群の延長でもある


 それをつまり男性型社会と表現できるにせよ
 お世話にあやかりたい&お世話されたい女子も多いのだから
 男性型社会とした表現にも無理は出る


 では、問おう「ならば女性型社会とはなんぞ?」


 つまり、世話好きな人たちが上に立っている社会構造と言う事だ

 普通より下とした自己評価では自信も持てずに、世間相手にお世話なんて無理ッ
 その点、そもそもの世話好きな性格こそが、日本人古来からの上から目線の本懐だった


> ところがどうだろうか?


 力こそ正義論者視点から、この世話好きな人たちを眺めてしまうと
 カネで雇えば済む事を、何をわざわざ奴隷仕事を買って出ているのだろうか?
 ‥ということになる

 ‥概ね、今どきの日本人の思考は、これのギャップに荒れている
 このギャップこそを欧米化と断定したとて言いすぎではない


 なにゆえに、その程度の事で悩ましく思うのかは
 そこには、自身を上に据えたいと思っている片手で
 「頑張ったからには、その分をしっかりとねぎらって貰いたい」
 とした一般的な労働観を握ってしまっているからだ

 ‥語るまでも無い
 そのような労って貰いたいとした弱音こそ、世話好きな性格からすれば格下の声でしかないのだ

 其に覚えのある者だけが歯を食いしばる
 それが古来からの日本人のお仕事観だった


> それゆえ、成果をお祭として等しくやらかすのも、そんな矜持からの裏返しだった事だろう



posted by 木田舎滝ゆる里 at 08:57 | Comment(0) | 科特隊どころか無理だからウルトラ経済大作戦 | 更新情報をチェックする