アレとは、言わずともiPadの事ですが、電子BOOKなどではなく、回覧板を地球規模に拡大させたように見えてきました。見えてきたというのもまだ手にしてないので、参考意見です。
あれで、電子ペンが付いていて気軽にメモれればアイデア・スケッチ帳としては申し分のないアイテムになると思いました。もちろん高度なお絵描きができるレベルで望みます。
そう考えてしまうと、まだ買う気にはなれませんね。
それと、ゲーム市場に影響が出るのではと‥普通に感想を抱きました。
それにしても、横書き専門の左めくりばかりで右めくりはできるのかに疑問です。
当然できると思いますが、今やマンガも世界では右めくりが常識です。
なんでも原作に忠実な方を好むんだとかで、この辺は合理的には考えられずに、作家の側のそのまんまのスタイルが受け入れられた形です。(※今や製本の現場は電子原稿です。ツールを使って、うまい具合に吹き出しや描き文字・オノマトペの部分の加工がわりと自由にできますから差し障りのない状況にあるようです。―)
どうせなら上めくりもあって良いと思います。
そちらの方が資料を漁る気分も盛り上がる気もしますからね。
渋い使い方としては、電子回覧板(iPad)を使った署名活動なんて良さげですね。
もちろん、ウェブサイトにアクセスして書き込めば良いわけですけど、街頭の目の前にある板に直接書いてもらうのも、体を張った行動と電子機器が連動している一体化に真新しさがあって良いと思います。
まぁ、収集後の分厚い資料を見せつける説得力は薄れるかもしれませんが、署名の資料作成が簡潔になる分それはそれで手の空く時間ができるわけですから、運動の展開のさせ方にも変化が望めると言うことでしょう。
例えば、マップ情報と連動させた署名であれば、どこのエリアに賛同者が多いかを後から割り出しが可能となったりと、ものは考えようです。ウェブサイトにアクセスするだけでは、そこまではなかなか生活感が見えてくるような展開にはなりませんからね。
これを街頭アンケートで考えれば、好感の良い場所と悪い場所との区別が、記録によって割り出せる形ですね。電子回覧板の画面に触れてピピッと押してもらうことで調査位置が記録されれば、ウェブサイトのアンケートからはわかりにくい生活空間の模様が浮かび上がるわけですから、考えようによっては、ネットに繋がっているのに逆に街頭調査も拡大して行くのかもしれません。
そういう習慣が根付けば、ついでに、街頭でのアンケートに参加していただければ抽選で後から連絡が届きますとばかりに、携帯電話を用いてタッチしていただくとよりお得です(※事前にウェブサイトからユーザー登録の要有り―)みたいなサービスも展開されるのかもしれません。
宝くじ事業も廃止うんぬんですから、広告代理店など通さずとも、企業自ら宣伝と市場調査とお得還元を組み合わせた新戦略を企てることも可能だと思います。
まさに、企業からの参加型回覧板ってか‥
2010年05月29日
2010年05月18日
宇宙情報の恋愛観は正しいのか?
さて、小説創作に向かうにあたり、根本的な哲学問答が始まってしまいました。
仮に恋愛をテーマにしたいと思っているとします。恋愛は言うまでもなく基本です。この男女間の感情の様を否定して、それは電気信号の作用に過ぎないとヤボなことを言い出せば、人間道徳というものは根底から成り立たず、そんなことを頭から言い出す科学者はゾンビ同然です。
「それでも、巷にあふれた恋愛観は正しいのでしょうか?」
まぁ人それぞれですから正しいもくそもありません。自由にやればいい。
そういう見方が往々にしておおざっぱな感覚にあると思います。
ここを巷で語られる宇宙情報と照らし合わせてみたとき、宇宙規模で滅んでしまうような文明・文化に根付いていた恋愛論など信用に値するのでしょうか?
これは地球人の起源が宇宙にあり、その宇宙人の最果ての地が地球というカラクリであるのならば、地球人にも当てはまることです。
そして、その地球上でも行き詰まりが生じており、転ばぬ先の杖として実験が行われている地球に、因果から宇宙から来ているとしても(そう言われております)、成長は見られず、そこにある男女間に求められたバランスは何一つ向上など見せていないと言った驚愕動転の想いに更けてしまってもおかしくありません。
ちなみに、宇宙情報からは、彼らのある存在から見て、地球人の恋愛は「所有欲だ‥」という意見がでておりますが、さてさて、そんな彼らの恋愛観でさえ、その文明は滅びの危機を避けられずにいるのです。それが宇宙の実態だと言われております。
まぁ滅びの危機と言っても原因には様々な要素がありましょうが、そこにあるコアな部分としての恋愛観は正しいのでしょうか‥
もし、滅びてもかまわないほどの自由さをもって愛を語るのであれば、不毛に過ぎないわけですし、継続的な姿の維持が中身はどうあれ成り立ってゆくのであれば、それはそれで合格ラインに位置した恋愛観だと考えてもおかしくありません。
そして、この問いかけはそのままに、西洋人の自由気ままな恋愛観と古来から東洋に見られたお家の事情に土着した恋愛観の問答ともとれそうです。
ここで、作家的な視点から言えることは、本流と思われている恋愛観にも欠落した部分は必ず潜むものであり、何を押して何を下げるのかはそれこそ作家の見せ方の課題でしかない‥つまり、どのような恋愛観にも可能性を見いだそうとするのであれば、変態・異質・異端といわれるような恋愛形態でさえ、なんら恥じる必要など無いという態度も成り立つ‥ただし、それなりの主張が通るような見解がそこに見いだせているのかどうかが重要だと相成るわけです。
‥などとくくってしまえば、振り出しです。
「自由にやればいい+それなりの主張を見いだせ」‥うんぬんで、つまりおおざっぱなままです。まぁそもそも恋愛はそこが基本でありますから、逆から見れば、保証された恋愛形態など何一つ存在しないとなるわけです。ツインソウルとかなんとかもその範疇でありましょう。
そうであれば、実際問題としても、悲観的すぎるのも楽観的すぎるのも論外だと言えるわけです。パターンとしても当然でしょう。作家ならそんなキャラにはツッコミを入れるがごとく一悶着付けるのが筋というものなのですから‥
つまり、あるべき姿を自分の現実に持ち込むが如し恋愛を創造したいのであれば、自分のルールは自分以外の世界とは常に不一致であることを自覚した上で、理解を得るためのケアは常に欠かせないと‥そこに継続性や継続欲が伴わないのであれば、根本から見直すべきだ‥となるんだと思います。
とはいえ、この恋愛ケア第一論主義は、何かと相手優勢な意味合いを持ち、ストレスの溜まりやすい要素を抱えます。まぁ逆から見ればそこにストレスを抱えているうちは本物ではない‥それが愛だ‥となるのでしょうね。もちろん感性としてだと思います。
なにしろ世の中にはその逆のパターンも然りとして存在しておりますからね。
その時、文学=感性でしかないのであれば、そんな文学観ははっきり言って化石なのかもしれません。
化石の用は、化石として楽しめるというだけであり、そこに秘められた生命の神秘を空想できる点において勝るのでしょうが、現実としては‥既成概念にしかならない厄介者だという事になるのでしょう。
まさに既成概念・世俗概念だけで恋愛をしようとしているのか、それとも、自分たちなりの恋愛創造がそこに作用することを求めているのか、そのバランスが活力となるかならないかの境目なのでは‥と思います。
言うならば、そこにある恋愛創造に、すべてへのつながり意識が濃かったか薄かったかの疑問が投じられないかぎり、宇宙に飛び出してゆけるような地繋がりな恋愛論への飛躍などありえないと思う限りです。
具体的な事を申し上げれば、誰しもが恋愛をして結婚をして家庭を持ち、各々で居を構えたいと考えているのであれば、どうしてそこに生じてしまう物理的な限界を社会が真剣に議論し合わないのか!?‥です。
{持ち上がらない}={誰もそこまで真剣に恋愛を考えていない}という返答にしかなりません。そうであれば、不遇のやってくる確立がそれなりに高くあっても当たり前だとなるのです。
そのように、はじめから自分たちの恋愛創造を裏切っているのであれば、世の中の流れが好転するはずもなく、べったりと地べたを這いずるような段階から抜け出せないのが社会的な現状にしかあれない‥そのように斬ってしまっても差し支えないのです。そんな段階で文明を謳歌しようなどと誰が正気にあれるのでしょうか‥
そこにあるような総合的な恋愛創造は、先着順の勝ち誇ったような像にしか映らないはずです。ならば、嫉妬も有って当然です。そこから様々にこじれるのも当然です。そのようにしか自分たちで創造し合っていないのですから当然としか言いようがありません。
このような恋愛論は、好きとか嫌いとか、上手く行くとか行かないの気持ちの有様とか、そんな一般的な次元から問うものではありません。物理的な現実問題として、そこにある理解が競争でしかないという中身を問うて行くものです。
物理的と言っても、「特定の人は一人しかいませんよね‥」というような流れでもありません。特定の人の奪い合いみたいな話にしても、当事者同士の恋愛創造に勝ち誇るようなビジョンしかないのであれば、それもそれ以上の進展は望めないわけです。
そこにまた一般論を持ち出す必要もありません。当事者同士で納得できるスタイルであればそれもまた有りだということです。
その全体的な視野において、物理的な限度が伴い、なおかつ、その限度の許容を拡大できるような取り組みを社会全体で向き合い確認し合う習慣がないのであれば、お互いの恋愛創造も現実に作用してゆかない形にしかならないという話です。
まぁそこまで考えて恋愛をする気にはならないでしょうから、教育の視点として取り組んでしまうのも考え方の一つだと思います。
性教育をどうして行くのかを論ずる前に、そこのところの踏み込みがまるでないのはさもしい限りです。
翻って、特定の宇宙人にしてみれば、それぐらいは織り込み済みなはずです。
そして、地球人はまだまだ総意としてそこには至っていないと思います。
結論として、「宇宙情報の恋愛観は正しいのか?」に決着の知るよしはありませんが、方向性の確認をし合うぐらいの態度は社会現象になってほしいところです。
環境問題をとことん突き詰めてゆけば、「総合的な恋愛創造・家庭創造の可能性を引き上げるには?」に置き換わるのですからね。これは言い過ぎではありません。
仮に恋愛をテーマにしたいと思っているとします。恋愛は言うまでもなく基本です。この男女間の感情の様を否定して、それは電気信号の作用に過ぎないとヤボなことを言い出せば、人間道徳というものは根底から成り立たず、そんなことを頭から言い出す科学者はゾンビ同然です。
「それでも、巷にあふれた恋愛観は正しいのでしょうか?」
まぁ人それぞれですから正しいもくそもありません。自由にやればいい。
そういう見方が往々にしておおざっぱな感覚にあると思います。
ここを巷で語られる宇宙情報と照らし合わせてみたとき、宇宙規模で滅んでしまうような文明・文化に根付いていた恋愛論など信用に値するのでしょうか?
これは地球人の起源が宇宙にあり、その宇宙人の最果ての地が地球というカラクリであるのならば、地球人にも当てはまることです。
そして、その地球上でも行き詰まりが生じており、転ばぬ先の杖として実験が行われている地球に、因果から宇宙から来ているとしても(そう言われております)、成長は見られず、そこにある男女間に求められたバランスは何一つ向上など見せていないと言った驚愕動転の想いに更けてしまってもおかしくありません。
ちなみに、宇宙情報からは、彼らのある存在から見て、地球人の恋愛は「所有欲だ‥」という意見がでておりますが、さてさて、そんな彼らの恋愛観でさえ、その文明は滅びの危機を避けられずにいるのです。それが宇宙の実態だと言われております。
まぁ滅びの危機と言っても原因には様々な要素がありましょうが、そこにあるコアな部分としての恋愛観は正しいのでしょうか‥
もし、滅びてもかまわないほどの自由さをもって愛を語るのであれば、不毛に過ぎないわけですし、継続的な姿の維持が中身はどうあれ成り立ってゆくのであれば、それはそれで合格ラインに位置した恋愛観だと考えてもおかしくありません。
そして、この問いかけはそのままに、西洋人の自由気ままな恋愛観と古来から東洋に見られたお家の事情に土着した恋愛観の問答ともとれそうです。
ここで、作家的な視点から言えることは、本流と思われている恋愛観にも欠落した部分は必ず潜むものであり、何を押して何を下げるのかはそれこそ作家の見せ方の課題でしかない‥つまり、どのような恋愛観にも可能性を見いだそうとするのであれば、変態・異質・異端といわれるような恋愛形態でさえ、なんら恥じる必要など無いという態度も成り立つ‥ただし、それなりの主張が通るような見解がそこに見いだせているのかどうかが重要だと相成るわけです。
‥などとくくってしまえば、振り出しです。
「自由にやればいい+それなりの主張を見いだせ」‥うんぬんで、つまりおおざっぱなままです。まぁそもそも恋愛はそこが基本でありますから、逆から見れば、保証された恋愛形態など何一つ存在しないとなるわけです。ツインソウルとかなんとかもその範疇でありましょう。
そうであれば、実際問題としても、悲観的すぎるのも楽観的すぎるのも論外だと言えるわけです。パターンとしても当然でしょう。作家ならそんなキャラにはツッコミを入れるがごとく一悶着付けるのが筋というものなのですから‥
つまり、あるべき姿を自分の現実に持ち込むが如し恋愛を創造したいのであれば、自分のルールは自分以外の世界とは常に不一致であることを自覚した上で、理解を得るためのケアは常に欠かせないと‥そこに継続性や継続欲が伴わないのであれば、根本から見直すべきだ‥となるんだと思います。
とはいえ、この恋愛ケア第一論主義は、何かと相手優勢な意味合いを持ち、ストレスの溜まりやすい要素を抱えます。まぁ逆から見ればそこにストレスを抱えているうちは本物ではない‥それが愛だ‥となるのでしょうね。もちろん感性としてだと思います。
なにしろ世の中にはその逆のパターンも然りとして存在しておりますからね。
その時、文学=感性でしかないのであれば、そんな文学観ははっきり言って化石なのかもしれません。
化石の用は、化石として楽しめるというだけであり、そこに秘められた生命の神秘を空想できる点において勝るのでしょうが、現実としては‥既成概念にしかならない厄介者だという事になるのでしょう。
まさに既成概念・世俗概念だけで恋愛をしようとしているのか、それとも、自分たちなりの恋愛創造がそこに作用することを求めているのか、そのバランスが活力となるかならないかの境目なのでは‥と思います。
言うならば、そこにある恋愛創造に、すべてへのつながり意識が濃かったか薄かったかの疑問が投じられないかぎり、宇宙に飛び出してゆけるような地繋がりな恋愛論への飛躍などありえないと思う限りです。
具体的な事を申し上げれば、誰しもが恋愛をして結婚をして家庭を持ち、各々で居を構えたいと考えているのであれば、どうしてそこに生じてしまう物理的な限界を社会が真剣に議論し合わないのか!?‥です。
{持ち上がらない}={誰もそこまで真剣に恋愛を考えていない}という返答にしかなりません。そうであれば、不遇のやってくる確立がそれなりに高くあっても当たり前だとなるのです。
そのように、はじめから自分たちの恋愛創造を裏切っているのであれば、世の中の流れが好転するはずもなく、べったりと地べたを這いずるような段階から抜け出せないのが社会的な現状にしかあれない‥そのように斬ってしまっても差し支えないのです。そんな段階で文明を謳歌しようなどと誰が正気にあれるのでしょうか‥
そこにあるような総合的な恋愛創造は、先着順の勝ち誇ったような像にしか映らないはずです。ならば、嫉妬も有って当然です。そこから様々にこじれるのも当然です。そのようにしか自分たちで創造し合っていないのですから当然としか言いようがありません。
このような恋愛論は、好きとか嫌いとか、上手く行くとか行かないの気持ちの有様とか、そんな一般的な次元から問うものではありません。物理的な現実問題として、そこにある理解が競争でしかないという中身を問うて行くものです。
物理的と言っても、「特定の人は一人しかいませんよね‥」というような流れでもありません。特定の人の奪い合いみたいな話にしても、当事者同士の恋愛創造に勝ち誇るようなビジョンしかないのであれば、それもそれ以上の進展は望めないわけです。
そこにまた一般論を持ち出す必要もありません。当事者同士で納得できるスタイルであればそれもまた有りだということです。
その全体的な視野において、物理的な限度が伴い、なおかつ、その限度の許容を拡大できるような取り組みを社会全体で向き合い確認し合う習慣がないのであれば、お互いの恋愛創造も現実に作用してゆかない形にしかならないという話です。
まぁそこまで考えて恋愛をする気にはならないでしょうから、教育の視点として取り組んでしまうのも考え方の一つだと思います。
性教育をどうして行くのかを論ずる前に、そこのところの踏み込みがまるでないのはさもしい限りです。
翻って、特定の宇宙人にしてみれば、それぐらいは織り込み済みなはずです。
そして、地球人はまだまだ総意としてそこには至っていないと思います。
結論として、「宇宙情報の恋愛観は正しいのか?」に決着の知るよしはありませんが、方向性の確認をし合うぐらいの態度は社会現象になってほしいところです。
環境問題をとことん突き詰めてゆけば、「総合的な恋愛創造・家庭創造の可能性を引き上げるには?」に置き換わるのですからね。これは言い過ぎではありません。
2010年05月16日
福の神のツボ
福の神のツボとタイトルを読まれて何を思われたでしょうか?
まずは「感謝」と「ありがとう」とが挙がると思います。
しかし、神様にとって何が「ありがとう」なのでしょうか‥
神の教えの基本形として、これら感謝の姿が福そのものであるとすれば、福の神自らがそのようであらねば筋が通らない話になるのです。
ゆえにそこにツッコミを入れればこうなります。
「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」
いかが思われたでしょうか‥
それもこれも足下目線で世の中を見回せば、すべてが大木にしか見えません。
靴の先にカメラを取り付けるようなちょっとあやし気なアングル観ですが、そのぐらい下から周りを見渡せば、自然と上を見上げるしかありませんから、すべてが大木にしか映らないわけです。
そこに気がつけば、それこそが福の神のお得意な視線であると言えるのです。
「みなさんたいへん立派な方ばかりです。」‥なんてね♪
「ではなぜ、我々人間には、そうではない上から目線のような神像が植え付けられているのでしょうか?」
本日は、そこを哲学してみたいと思います。
{村社会}≒{封建社会}であるとき、弱い立場の者が不運にも強欲な長の傘下に置かれてしまったとき、何があろうとも申し立てることも聞き入れられず、長のご機嫌よろしくな一方的な言い分にさらされます。そこには希望など見あたらずに、泣き寝入りな人生があるだけかもしれません。
一方、{村社会}≒{合議制(民主主義)}であるとき、弱い立場の者は程度救いの手をさしのべられても宜しいように考えられているのがお互い様の世界観なわけです。
ところが、この構図の本質には、社会的な安定と不安定が絡むことを忘れてはなりません。
社会が安定すればするほど、本質において封建社会であろうと民主社会であろうと、格差は固まって行き、そこに築かれる体制的な癒着や馴れ合いは、どのように工夫をしようとも不本意な甘さを生じさせる要素にしかならないのです。
そして言わずとも、極端な不安定の場合でも同様の現象に転じます。
その反対に、不安定にさらされる要素が拭えない上での安定と不安定との適度な繰り返しであれば、協力し合うという必然性が「生きる」という直接的な問題として常に問いかかってくるわけです。その結果、合議制であることを必然とさせます。一人の知恵で追いつかなければそういうことです。
これら2つの要素を振り返ってみたとき、人間の意識の中で無意識に安定ばかりを求めるあまり、知らず知らずのうちに、自らが上から目線となり、体制主義的な長いものに巻かれるのが得策とする考えや、強い者に付くのが当たり前のような意識が根付いてしまっていると言えるのです。反対に、不安定すぎても同様です。
ゆえに、そこにおわす神は「良きに計らえ」とは言われるでしょうが、しくじれば実力主義な裁きを下す威厳の神像となるのです。
では、「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」とおっしゃるような神様はどうでしょうか‥
福の神の立場上、そんなことを直に言ってしまうと人間の学びにならないので、ポーカーフェイスを決め込んでいる事に他との差はないわけですが、福の神自ら日々そのような心懸けで生きているのがふつうであると、人間側でそう思えなければ人間は本当の意味で感謝を学んだとは言えないのです。
そして、安定よりも、幾分不安定を含んでいた方が、人間同士で上手く行くというのであれば、そちらの方を人間に与えるというのも福の神の知恵と見るべきでありましょう。
だからこそ、上手く行ったときは、人間もまた「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」と自らが福の神に通じた言葉を唱えることになって行くのが福の神のツボなのだと思います。
会社の社長で言えば、「今月もまた社員の皆様に十分な給与を出させていただき誠ありがとうございました。」‥みたいなところでしょうか。
しかしながら、言うは易く行うは難しです。
なにしろ人間はひねくれてしまうと、長いものに巻かれたいとも思いませんし、強い者に付きたいとも思いませんし、強くありたいとも思いませんし、感謝もくそもへったくれもありゃしません。放っておいてもらいたい世界観に出入りしてしまうのです。
そしてそれは誰しもに起こりうる人間としての性質です。
そこに恥じる必要はありません。安定と不安定の繰り返しに知恵ありとされているのであれば、それも然りだからです。最後の節目よろしくな気持ちのあり方としての感謝、その時同時に生じるであろう新たな視界の獲得‥そこにこそ福を求めるべきなのでしょう。
まずは「感謝」と「ありがとう」とが挙がると思います。
しかし、神様にとって何が「ありがとう」なのでしょうか‥
神の教えの基本形として、これら感謝の姿が福そのものであるとすれば、福の神自らがそのようであらねば筋が通らない話になるのです。
ゆえにそこにツッコミを入れればこうなります。
「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」
いかが思われたでしょうか‥
それもこれも足下目線で世の中を見回せば、すべてが大木にしか見えません。
靴の先にカメラを取り付けるようなちょっとあやし気なアングル観ですが、そのぐらい下から周りを見渡せば、自然と上を見上げるしかありませんから、すべてが大木にしか映らないわけです。
そこに気がつけば、それこそが福の神のお得意な視線であると言えるのです。
「みなさんたいへん立派な方ばかりです。」‥なんてね♪
「ではなぜ、我々人間には、そうではない上から目線のような神像が植え付けられているのでしょうか?」
本日は、そこを哲学してみたいと思います。
{村社会}≒{封建社会}であるとき、弱い立場の者が不運にも強欲な長の傘下に置かれてしまったとき、何があろうとも申し立てることも聞き入れられず、長のご機嫌よろしくな一方的な言い分にさらされます。そこには希望など見あたらずに、泣き寝入りな人生があるだけかもしれません。
一方、{村社会}≒{合議制(民主主義)}であるとき、弱い立場の者は程度救いの手をさしのべられても宜しいように考えられているのがお互い様の世界観なわけです。
ところが、この構図の本質には、社会的な安定と不安定が絡むことを忘れてはなりません。
社会が安定すればするほど、本質において封建社会であろうと民主社会であろうと、格差は固まって行き、そこに築かれる体制的な癒着や馴れ合いは、どのように工夫をしようとも不本意な甘さを生じさせる要素にしかならないのです。
そして言わずとも、極端な不安定の場合でも同様の現象に転じます。
その反対に、不安定にさらされる要素が拭えない上での安定と不安定との適度な繰り返しであれば、協力し合うという必然性が「生きる」という直接的な問題として常に問いかかってくるわけです。その結果、合議制であることを必然とさせます。一人の知恵で追いつかなければそういうことです。
これら2つの要素を振り返ってみたとき、人間の意識の中で無意識に安定ばかりを求めるあまり、知らず知らずのうちに、自らが上から目線となり、体制主義的な長いものに巻かれるのが得策とする考えや、強い者に付くのが当たり前のような意識が根付いてしまっていると言えるのです。反対に、不安定すぎても同様です。
ゆえに、そこにおわす神は「良きに計らえ」とは言われるでしょうが、しくじれば実力主義な裁きを下す威厳の神像となるのです。
では、「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」とおっしゃるような神様はどうでしょうか‥
福の神の立場上、そんなことを直に言ってしまうと人間の学びにならないので、ポーカーフェイスを決め込んでいる事に他との差はないわけですが、福の神自ら日々そのような心懸けで生きているのがふつうであると、人間側でそう思えなければ人間は本当の意味で感謝を学んだとは言えないのです。
そして、安定よりも、幾分不安定を含んでいた方が、人間同士で上手く行くというのであれば、そちらの方を人間に与えるというのも福の神の知恵と見るべきでありましょう。
だからこそ、上手く行ったときは、人間もまた「本日も誠良き功徳に良き計らいをさせていただきありがとうございました。」と自らが福の神に通じた言葉を唱えることになって行くのが福の神のツボなのだと思います。
会社の社長で言えば、「今月もまた社員の皆様に十分な給与を出させていただき誠ありがとうございました。」‥みたいなところでしょうか。
しかしながら、言うは易く行うは難しです。
なにしろ人間はひねくれてしまうと、長いものに巻かれたいとも思いませんし、強い者に付きたいとも思いませんし、強くありたいとも思いませんし、感謝もくそもへったくれもありゃしません。放っておいてもらいたい世界観に出入りしてしまうのです。
そしてそれは誰しもに起こりうる人間としての性質です。
そこに恥じる必要はありません。安定と不安定の繰り返しに知恵ありとされているのであれば、それも然りだからです。最後の節目よろしくな気持ちのあり方としての感謝、その時同時に生じるであろう新たな視界の獲得‥そこにこそ福を求めるべきなのでしょう。
2010年05月07日
「詰め込み」or「産み出し」
エネルギーの流れは一定方向であった方が安定度は増します。
多方向への流動が如何に制御しづらいかは、その手の技術屋さんならすんなり頷けることだと思います。
これを人間の思考で言えば、「詰め込み」と「産み出し」です。
単に「記憶」と「発想」と言ってしまってもかまわないと思います。
つまり、覚えることに意識を傾ければ発想というエネルギーから遠ざかるのです。
その逆として、発想に意識を傾ければ記憶という作業はお荷物になります。
それでも、一流の科学者のレベルにもなれば、一度見ただけでピタッと覚えてしまうような話もあります。まぁそれはそれです。そこで、覚えることにエネルギーを浪費しなければならない凡人クラスでしかないのであれば、どちらかを切り捨てた方が都合が良いと言えるのです。
ただし、覚えることを捨てれば捨てるほど、集団生活ではバツが悪く格好が付かないのが日常です。「そんなことも知らないのか!」‥という具合にね。
そして日本人のDNAは日々淡々とするべきことをすることで、無駄なく記憶と発想とがステップバイステップで身につくように設計されていますが、人間の好奇心というモノはなかなかにそう言うわけには行かないようです。
安定を望めば望むほどに保守的となり、その武装的な発想として「記憶」という作業にはまって行くのです。自分の頭が生まれ持った以上に記憶力が望めないのであれば、記憶を酷使するのではなく、発想にも向き合わなければなりません。
この発想と向き合おうとするとき、壁になるのが感情です。
DNAに刻まれたありとあらゆる記憶が、感情を鍵として吹き出ようと始めるのです。この良い例が恋愛です。新しい何かを産み出すことができなければ前に進めないという典型的な形です。好きと嫌いだけでは空回りするだけです。
戦闘においても生き残るための重圧がそこにやって来て、様々な感情を排除しながら最良の選択肢を選び出す‥でなければ生き残れません。是もその一つの形です。
つまり、記憶という作業は感情をストップさせている状態ですが、発想という作業はこの逆をする作業でもあるわけです。
必要と思えないところに感情は生まれません。ゆえに発想も生まれません。
平坦な日常ばかりの心境が平和で一番であったとしても、発想を身に付けたければ、空想的な空間で感情の負荷を克服するようなトレーニングを積むか、現場で死や恥と向き合いながら自分の中の何かを克服するかのどちらかです。他に方法はありません。
歴史に「もし」を持ち込みたくなるのもそんな思考の一部なのです。
本の読み方一つにしても、詰め込んでいるのか、参加しているのかの差でどちら側にエネルギーを発散しているのかの違いが生じます。
速読がもてはやされる一方で、考えながら読んだり反芻したり読む習慣を持つこともまた無駄ではありません。
ただその時、感情を絡めて考えているかどうかが重要です。なぜならそれが経験したという実際の体験と程度似たような効果をもたらすからです。
そのポイントは、自分であればどう思うかです。
次に自分に様々な条件を与えてみて考えを膨らますのです。その蓄積の結果、自分の立場以外からの視点や着想が湧くようになればしめたものです。そこでも様々な感情の在り方の活かし方を問うのが鍵なのです。
そのとき、日常の基礎知識や常識が深ければそれだけ立体感のある思考になって行くわけですが、そこに思い込みや個性があればどこまでもそれはついて回ります。
発想のオリジナリティーにこだわればこだわるほど、行き着くところは墓場や牢獄で天国を語れるような境地の想像なのかもしれません。そんな人は普段どんな思考をするのでしょうか?
ふつうに暮らしていられれば満足な人にそんなことはどうでも良いことでしょうが、発想とはそんなどうでもいい感情から成り立つ選択肢を知りたいと思うような好奇心の積み重ねだと思います。ある意味変態なわけですが、人とは違う奇妙な部分は、実際誰にでもあると思います。
お互いがそこに気がつくだけでも、今までとは違う発想の糸口になれると思います。
マンガの世界観なんか良い例でしょう。
たとえば、ネガティブとポジティブです。
ぼくの発想の中にはあえてネガティブな要素を排除している嫌いが見られます。
あえてしているわけです。
すると戦争とか武装とか競争とか、なんかそういう野生の世界観のようなものをいつまで持ち込んでいるのか?‥という視点に映るはずです。
特に平和主義と言うわけでもなく、国防論でガチガチの人から見れば、そこにある政治・経済の話の下りにおかしさがあるように見えてしまうはずです。
しかし、あえて外してしまっていることで見えていなかったものが見えてくるはずです。逆から言えば、これまでの政治経済なんてものは、国防論でガチガチな世界観でしかないという事になるのです。
「人間同士で敵視し合っているモチベーションて何?」
答えは決まっています。思惑です。憎悪です。ゲーム感覚です。それとも団結への昂揚欲でしょうか‥答えの一つ一つは人それぞれ微妙に異なりますが、答えは決まっているのです。自分がその中のどれを請け負うかという違いがあるだけです。
自分が作家になってオリジナルの戦争を考えてみれば明白です。
勝たせたい方をあらかじめ決めて描くわけです。その説得を後付で足して行くわけです。いろんな味付けがあるわけですが、結局の処、敵視させるためのモチベーションを維持してゆく感情がないと続かないわけです。
続かないとそこから先がない‥そういう「恐怖」に煽られている‥それだけです。
恐怖をやっつけようとしてムキになっても勝敗などつきません。
恐怖からは去るのみ。恐怖は捨てるのみ。それが、自分の思考や感情がその発端でしかないとわかればそうするしかないでしょう。
そして、その先に保つべきモチベーションを発想できないがゆえに幸福は訪れない。いつまでも戦争よろしくな映像を見ながら、詰め込むことしかできないのです。
恐怖で一杯に詰め込んだ気持ちの拠り所を求めてわめき散らすぐらいしかできないのです。今度は俺がヒーローになってやる‥と言う具合にね。それだけです。
絶望や恐怖から逃れたいという欲があれば幸福は訪れません。欺瞞や猜疑があればなおさらです。なぜなら、幸福にはそんな欲がないからです。
今ここに存在するというそれだけの視点から、幸福であると思える感謝の気持ちにしか幸福は宿らないのです。
それが、至福には幸福が訪れると言われる波長同通そのものの見解なのです。
そこには恐怖からなる視点などどこにも存在しないのです。
ただし、慢性化してしまえば自ずと停滞は起こりますけどね。
そこがわからなければ、政治と社会の空回りはいつまでも続く‥単純なカラクリですね。
多方向への流動が如何に制御しづらいかは、その手の技術屋さんならすんなり頷けることだと思います。
これを人間の思考で言えば、「詰め込み」と「産み出し」です。
単に「記憶」と「発想」と言ってしまってもかまわないと思います。
つまり、覚えることに意識を傾ければ発想というエネルギーから遠ざかるのです。
その逆として、発想に意識を傾ければ記憶という作業はお荷物になります。
それでも、一流の科学者のレベルにもなれば、一度見ただけでピタッと覚えてしまうような話もあります。まぁそれはそれです。そこで、覚えることにエネルギーを浪費しなければならない凡人クラスでしかないのであれば、どちらかを切り捨てた方が都合が良いと言えるのです。
ただし、覚えることを捨てれば捨てるほど、集団生活ではバツが悪く格好が付かないのが日常です。「そんなことも知らないのか!」‥という具合にね。
そして日本人のDNAは日々淡々とするべきことをすることで、無駄なく記憶と発想とがステップバイステップで身につくように設計されていますが、人間の好奇心というモノはなかなかにそう言うわけには行かないようです。
安定を望めば望むほどに保守的となり、その武装的な発想として「記憶」という作業にはまって行くのです。自分の頭が生まれ持った以上に記憶力が望めないのであれば、記憶を酷使するのではなく、発想にも向き合わなければなりません。
この発想と向き合おうとするとき、壁になるのが感情です。
DNAに刻まれたありとあらゆる記憶が、感情を鍵として吹き出ようと始めるのです。この良い例が恋愛です。新しい何かを産み出すことができなければ前に進めないという典型的な形です。好きと嫌いだけでは空回りするだけです。
戦闘においても生き残るための重圧がそこにやって来て、様々な感情を排除しながら最良の選択肢を選び出す‥でなければ生き残れません。是もその一つの形です。
つまり、記憶という作業は感情をストップさせている状態ですが、発想という作業はこの逆をする作業でもあるわけです。
必要と思えないところに感情は生まれません。ゆえに発想も生まれません。
平坦な日常ばかりの心境が平和で一番であったとしても、発想を身に付けたければ、空想的な空間で感情の負荷を克服するようなトレーニングを積むか、現場で死や恥と向き合いながら自分の中の何かを克服するかのどちらかです。他に方法はありません。
歴史に「もし」を持ち込みたくなるのもそんな思考の一部なのです。
本の読み方一つにしても、詰め込んでいるのか、参加しているのかの差でどちら側にエネルギーを発散しているのかの違いが生じます。
速読がもてはやされる一方で、考えながら読んだり反芻したり読む習慣を持つこともまた無駄ではありません。
ただその時、感情を絡めて考えているかどうかが重要です。なぜならそれが経験したという実際の体験と程度似たような効果をもたらすからです。
そのポイントは、自分であればどう思うかです。
次に自分に様々な条件を与えてみて考えを膨らますのです。その蓄積の結果、自分の立場以外からの視点や着想が湧くようになればしめたものです。そこでも様々な感情の在り方の活かし方を問うのが鍵なのです。
そのとき、日常の基礎知識や常識が深ければそれだけ立体感のある思考になって行くわけですが、そこに思い込みや個性があればどこまでもそれはついて回ります。
発想のオリジナリティーにこだわればこだわるほど、行き着くところは墓場や牢獄で天国を語れるような境地の想像なのかもしれません。そんな人は普段どんな思考をするのでしょうか?
ふつうに暮らしていられれば満足な人にそんなことはどうでも良いことでしょうが、発想とはそんなどうでもいい感情から成り立つ選択肢を知りたいと思うような好奇心の積み重ねだと思います。ある意味変態なわけですが、人とは違う奇妙な部分は、実際誰にでもあると思います。
お互いがそこに気がつくだけでも、今までとは違う発想の糸口になれると思います。
マンガの世界観なんか良い例でしょう。
たとえば、ネガティブとポジティブです。
ぼくの発想の中にはあえてネガティブな要素を排除している嫌いが見られます。
あえてしているわけです。
すると戦争とか武装とか競争とか、なんかそういう野生の世界観のようなものをいつまで持ち込んでいるのか?‥という視点に映るはずです。
特に平和主義と言うわけでもなく、国防論でガチガチの人から見れば、そこにある政治・経済の話の下りにおかしさがあるように見えてしまうはずです。
しかし、あえて外してしまっていることで見えていなかったものが見えてくるはずです。逆から言えば、これまでの政治経済なんてものは、国防論でガチガチな世界観でしかないという事になるのです。
「人間同士で敵視し合っているモチベーションて何?」
答えは決まっています。思惑です。憎悪です。ゲーム感覚です。それとも団結への昂揚欲でしょうか‥答えの一つ一つは人それぞれ微妙に異なりますが、答えは決まっているのです。自分がその中のどれを請け負うかという違いがあるだけです。
自分が作家になってオリジナルの戦争を考えてみれば明白です。
勝たせたい方をあらかじめ決めて描くわけです。その説得を後付で足して行くわけです。いろんな味付けがあるわけですが、結局の処、敵視させるためのモチベーションを維持してゆく感情がないと続かないわけです。
続かないとそこから先がない‥そういう「恐怖」に煽られている‥それだけです。
恐怖をやっつけようとしてムキになっても勝敗などつきません。
恐怖からは去るのみ。恐怖は捨てるのみ。それが、自分の思考や感情がその発端でしかないとわかればそうするしかないでしょう。
そして、その先に保つべきモチベーションを発想できないがゆえに幸福は訪れない。いつまでも戦争よろしくな映像を見ながら、詰め込むことしかできないのです。
恐怖で一杯に詰め込んだ気持ちの拠り所を求めてわめき散らすぐらいしかできないのです。今度は俺がヒーローになってやる‥と言う具合にね。それだけです。
絶望や恐怖から逃れたいという欲があれば幸福は訪れません。欺瞞や猜疑があればなおさらです。なぜなら、幸福にはそんな欲がないからです。
今ここに存在するというそれだけの視点から、幸福であると思える感謝の気持ちにしか幸福は宿らないのです。
それが、至福には幸福が訪れると言われる波長同通そのものの見解なのです。
そこには恐怖からなる視点などどこにも存在しないのです。
ただし、慢性化してしまえば自ずと停滞は起こりますけどね。
そこがわからなければ、政治と社会の空回りはいつまでも続く‥単純なカラクリですね。
2010年04月25日
{東京スカイツリー}−{Android端末}≦{思惑の誤算}
新東京タワー計画の時代の携帯端末は、DoCoMoを筆頭に、携帯からネット回線へのアクセスに制限を設けておくことは普通の見解だったことでしょう。
ところが今やiPhoneを皮切りに携帯端末からの自由なアクセスが可能です。
ここに思惑の誤算があるのではないのか‥と思った次第です。
当時のワンセグのコンセプトは、TVショッピングの延長のような使い方の提案として、番組からの情報→リンクサイトへの誘導だったと記憶しております。
その頃は自由にアクセスできないのはなんとなく当たり前、その意味不明なお約束が携帯とPCを棲み分ける意味での当たり前だったのです。
その状況であれば、売る側の思惑を発揮させるに十分な環境だったことでしょう。
ワンセグの番組や広告を見て、アレが欲しいとその気になり、TVショッピング的な衝動買いパターンにある品数限定ヨロシクにあれば、よく調べてからなどとは言っていられません。それがiPhone以前の携帯端末を前提としたTVショッピング的な発想でのワンセグだったわけです。
ところがです。今や携帯端末から調べられることはPCとほぼ同等です。
実際体験したわけではありませんので、どこがどう違うのかという要素についてわかりませんが、ワンセグの番組や広告を見たとしても、きっちり調べることがその場で可能になったわけです。この差は大きいでしょう。
そして、お金を持っている人ほど、最先端の端末を手にし、そして、調べることに関して細かいわけです。
ここは、どう考えても、大手側の複合的な売上増を狙った、デジタル放送の開始と同時にワンセグが広まれば、それに比例して主導的に経済効果が上がるという発想は成り立たないように思うわけです。
売る側の誤算を修正するためには、さらなる差別化を見いだして行かなければならない。それはつまり、作り手市場になるという予想です。
如何に個性的なモノを発掘して来れるかが、売る側に要求されるのです。今時分でさえそうですが、ワンセグと共に、アクセスショッピングという感覚を強調させて活用して行くならば、売る側は常に数を程度用意しなければならず、限定品のオンパレードでなければならないという圧力にさらに曝されるはずです。
結果的に作り手市場になる方向性は的外れではありません。
そして、ワンセグでその手の番組や広告が増えれば増えるほどに、今度は逆に、個性と安さの勝負だけでは限定品にも在庫が続出する事態になるやも知れません。
そこで、こんな考えもありです。
「限定品をわざわざ安く売る必要があるのか?」
しかし、量を確保してこその売上でもあったし限定品でもあった。
それでも競争が激しくあれば、安さは付加価値にならないし、在庫リスクに曝されるだけである。
ならば、確実に手間が掛かっているとわかる見栄えの良い価値観の大きな商品を、品数超限定で、高価格でもって販売をスタートさせ、時間の経過ととも値段を少しずつ下げて行く売り方のほうが、うまく行くのではないのか‥
‥とまぁ、作り手市場もそんな方向に流れるのでは‥などとふと思った次第です。
とはいえ、その時の経済状況を織り込んでおりませんので、あくまで参考意見です。
ところが今やiPhoneを皮切りに携帯端末からの自由なアクセスが可能です。
ここに思惑の誤算があるのではないのか‥と思った次第です。
当時のワンセグのコンセプトは、TVショッピングの延長のような使い方の提案として、番組からの情報→リンクサイトへの誘導だったと記憶しております。
その頃は自由にアクセスできないのはなんとなく当たり前、その意味不明なお約束が携帯とPCを棲み分ける意味での当たり前だったのです。
その状況であれば、売る側の思惑を発揮させるに十分な環境だったことでしょう。
ワンセグの番組や広告を見て、アレが欲しいとその気になり、TVショッピング的な衝動買いパターンにある品数限定ヨロシクにあれば、よく調べてからなどとは言っていられません。それがiPhone以前の携帯端末を前提としたTVショッピング的な発想でのワンセグだったわけです。
ところがです。今や携帯端末から調べられることはPCとほぼ同等です。
実際体験したわけではありませんので、どこがどう違うのかという要素についてわかりませんが、ワンセグの番組や広告を見たとしても、きっちり調べることがその場で可能になったわけです。この差は大きいでしょう。
そして、お金を持っている人ほど、最先端の端末を手にし、そして、調べることに関して細かいわけです。
ここは、どう考えても、大手側の複合的な売上増を狙った、デジタル放送の開始と同時にワンセグが広まれば、それに比例して主導的に経済効果が上がるという発想は成り立たないように思うわけです。
売る側の誤算を修正するためには、さらなる差別化を見いだして行かなければならない。それはつまり、作り手市場になるという予想です。
如何に個性的なモノを発掘して来れるかが、売る側に要求されるのです。今時分でさえそうですが、ワンセグと共に、アクセスショッピングという感覚を強調させて活用して行くならば、売る側は常に数を程度用意しなければならず、限定品のオンパレードでなければならないという圧力にさらに曝されるはずです。
結果的に作り手市場になる方向性は的外れではありません。
そして、ワンセグでその手の番組や広告が増えれば増えるほどに、今度は逆に、個性と安さの勝負だけでは限定品にも在庫が続出する事態になるやも知れません。
そこで、こんな考えもありです。
「限定品をわざわざ安く売る必要があるのか?」
しかし、量を確保してこその売上でもあったし限定品でもあった。
それでも競争が激しくあれば、安さは付加価値にならないし、在庫リスクに曝されるだけである。
ならば、確実に手間が掛かっているとわかる見栄えの良い価値観の大きな商品を、品数超限定で、高価格でもって販売をスタートさせ、時間の経過ととも値段を少しずつ下げて行く売り方のほうが、うまく行くのではないのか‥
‥とまぁ、作り手市場もそんな方向に流れるのでは‥などとふと思った次第です。
とはいえ、その時の経済状況を織り込んでおりませんので、あくまで参考意見です。
2010年04月24日
twitter(浪言)の発展系を考える
浪:なみ。よりどころなくさまよう。
浪言:(読み)ろうごん→ろごん。twitterの翻訳表現。
さまようようなちょっとしたつぶやき、ちょっとした発言やフォロー。
‥と言うわけで、twitterと表記するのは打ちにくいのでここでは浪言と表記します。
ついでに言い回しとして、浪言化するや浪言的と表現した場合も、twitterに書き込むことを意味します。では、本題です。
実際、私はiPhoneやAndroid端末をいじったことがないので、これから述べる事は拾った情報からの想像です。
印象に一番深いのが、端末のWebカメラから撮影した映像に浪言が飛び出して吹き出しになる技術です。その可能性についてイメージが湧いてきました。
例えば、海外旅行先の観光案内として浪言の吹き出しが母国語に翻訳されて飛び出せば、観光案内に化けますし、翻訳と現地語の両方が出てくれば、ちょっとした言語学習のツールに化けます。発音もしてくれればさらにグッドだと思います。
重ねるまでもなく、どこまで実現化されているのかを私は現場体験しておりません。
また、所持している端末を持ち歩いているのが日常にあるのであれば、想定される機能・サービスに参加することで、自分自身が映ったことで、名刺のような効果を狙えるはずです。
誰かのカメラに自分が写ると、浪言の吹き出しに、「名刺:名前です」が飛び出して来る‥と言った感じでしょうか。
名刺の部分を会社名にすれば歩く広告塔との見方もありえます。
他人の端末をたまたま借りて所持していたりすると、出てきた情報と顔の不一致が起きてしまう事もあるでしょうが、考えようによっては、防犯要素に一役かってくれそうです。どこで撮影されているかわからないのに、うかつに電源を入れることができなければ、拾い物のSIM カードは必要とされないわけです。これは、電話会社ごとにある携帯機種間の垣根を取り除いてしまえば、より強調されてくる要素です。
さて、それで何が変わるのでしょうか?
今時分、名刺交換の仕方に様々な工夫がされていますが、特別なモードで撮影し合うことで、撮影された人の顔と端末番号(電話番号)が取り込まれるような記録方式であれば、そのままその撮影データから浪言のアドレスにリンクできたり、自分のブログと繋がったりと、下準備しておくことでのアピールも可能になるなんてどうでしょうか‥
これが仮にウケて世に広まった所を想像してみましょう。
そこでは人材発掘の在り方が大変貌するはずです。誰しもが携帯を突きだして人を探すことに関心が集まった結果、専用のゴーグル画面が発売され、それを通して、道行く人の情報を確認しまくるのが日常になっているスパイ映画みたいな日常ですね。
個人情報の流出・悪用が気になるなら登録しなければいいだけです。
その代わり、自分が歩いていても情報に引っかからないので、その手の意外性に出会わないわけです。
世界中で暗躍しているスパイにしてみれば、「実に便利な時代になったものだなぁ‥」と白昼堂々と人材調査が行われることになるでしょうが、個人や企業にしてみても同じような形になるわけです。
個人的な使い所であれば、行きつけの店にいつも来るあの人はどんな人だろうか?
店員であれ、客であれ、気になる存在をすかさずチェック!。
店員であれば、顧客情報が嫌でも画面を通じて先読みできるかも知れないし、客であれば、いろいろと店内の人物観察に役立つかも知れません。とくに店員ですね。
家族はいるのかいないのか?、子供はいるのかいないのか?何人いるのか?、独身かそうでないのか?、少なくともそういうお客様に対してなかなか聞けないような情報を事前にキャッチできるかもしれないだけでも商売はまったく違ってきます。
客の側にしても同じで、店員の個性が丸見えであれば、ツッコミどころもまた変わってきて、クレームのされ方も様変わりするかも知れません。
怪しいと思えば怪しいですが、嫌ならサービスに参加しなければいいだけです。
会社面接であればどうでしょう?
面接の時間だけで評価されたくないのであれば、嫌でも活用して行くしかありません。
例えば、学生であれば、先ほどの「名刺:名前です」のところを、「就活中、現在○○、XX歳、名前」「俺の夢、名前、XX歳」と言った感じです。
そして知ってもらうためには、外に出まくるしかありません。
で、浪言のアドレスから、自己紹介のページに飛んだりブログに飛んだりできれば、それが名刺代わりになるわけです。
と言っても。そんな生真面目な使い方をする人はどれだけいるのでしょうか?
実際は、手っ取り早く、彼氏・彼女募集うんぬんな傾向に流れるのが落ちだと思います。それはそれで、自分に集まってくる人物像の観察をしてみるという使い所も有りかと思います。
とまぁ、そんな具合に想像してみました。
浪言:(読み)ろうごん→ろごん。twitterの翻訳表現。
さまようようなちょっとしたつぶやき、ちょっとした発言やフォロー。
‥と言うわけで、twitterと表記するのは打ちにくいのでここでは浪言と表記します。
ついでに言い回しとして、浪言化するや浪言的と表現した場合も、twitterに書き込むことを意味します。では、本題です。
実際、私はiPhoneやAndroid端末をいじったことがないので、これから述べる事は拾った情報からの想像です。
印象に一番深いのが、端末のWebカメラから撮影した映像に浪言が飛び出して吹き出しになる技術です。その可能性についてイメージが湧いてきました。
例えば、海外旅行先の観光案内として浪言の吹き出しが母国語に翻訳されて飛び出せば、観光案内に化けますし、翻訳と現地語の両方が出てくれば、ちょっとした言語学習のツールに化けます。発音もしてくれればさらにグッドだと思います。
重ねるまでもなく、どこまで実現化されているのかを私は現場体験しておりません。
また、所持している端末を持ち歩いているのが日常にあるのであれば、想定される機能・サービスに参加することで、自分自身が映ったことで、名刺のような効果を狙えるはずです。
誰かのカメラに自分が写ると、浪言の吹き出しに、「名刺:名前です」が飛び出して来る‥と言った感じでしょうか。
名刺の部分を会社名にすれば歩く広告塔との見方もありえます。
他人の端末をたまたま借りて所持していたりすると、出てきた情報と顔の不一致が起きてしまう事もあるでしょうが、考えようによっては、防犯要素に一役かってくれそうです。どこで撮影されているかわからないのに、うかつに電源を入れることができなければ、拾い物のSIM カードは必要とされないわけです。これは、電話会社ごとにある携帯機種間の垣根を取り除いてしまえば、より強調されてくる要素です。
さて、それで何が変わるのでしょうか?
今時分、名刺交換の仕方に様々な工夫がされていますが、特別なモードで撮影し合うことで、撮影された人の顔と端末番号(電話番号)が取り込まれるような記録方式であれば、そのままその撮影データから浪言のアドレスにリンクできたり、自分のブログと繋がったりと、下準備しておくことでのアピールも可能になるなんてどうでしょうか‥
これが仮にウケて世に広まった所を想像してみましょう。
そこでは人材発掘の在り方が大変貌するはずです。誰しもが携帯を突きだして人を探すことに関心が集まった結果、専用のゴーグル画面が発売され、それを通して、道行く人の情報を確認しまくるのが日常になっているスパイ映画みたいな日常ですね。
個人情報の流出・悪用が気になるなら登録しなければいいだけです。
その代わり、自分が歩いていても情報に引っかからないので、その手の意外性に出会わないわけです。
世界中で暗躍しているスパイにしてみれば、「実に便利な時代になったものだなぁ‥」と白昼堂々と人材調査が行われることになるでしょうが、個人や企業にしてみても同じような形になるわけです。
個人的な使い所であれば、行きつけの店にいつも来るあの人はどんな人だろうか?
店員であれ、客であれ、気になる存在をすかさずチェック!。
店員であれば、顧客情報が嫌でも画面を通じて先読みできるかも知れないし、客であれば、いろいろと店内の人物観察に役立つかも知れません。とくに店員ですね。
家族はいるのかいないのか?、子供はいるのかいないのか?何人いるのか?、独身かそうでないのか?、少なくともそういうお客様に対してなかなか聞けないような情報を事前にキャッチできるかもしれないだけでも商売はまったく違ってきます。
客の側にしても同じで、店員の個性が丸見えであれば、ツッコミどころもまた変わってきて、クレームのされ方も様変わりするかも知れません。
怪しいと思えば怪しいですが、嫌ならサービスに参加しなければいいだけです。
会社面接であればどうでしょう?
面接の時間だけで評価されたくないのであれば、嫌でも活用して行くしかありません。
例えば、学生であれば、先ほどの「名刺:名前です」のところを、「就活中、現在○○、XX歳、名前」「俺の夢、名前、XX歳」と言った感じです。
そして知ってもらうためには、外に出まくるしかありません。
で、浪言のアドレスから、自己紹介のページに飛んだりブログに飛んだりできれば、それが名刺代わりになるわけです。
と言っても。そんな生真面目な使い方をする人はどれだけいるのでしょうか?
実際は、手っ取り早く、彼氏・彼女募集うんぬんな傾向に流れるのが落ちだと思います。それはそれで、自分に集まってくる人物像の観察をしてみるという使い所も有りかと思います。
とまぁ、そんな具合に想像してみました。
2010年03月20日
ドバイとフリーゾーンと世界一は、もっとも奴隷社会に近い構造
ドバイとフリーゾーンと世界一は、もっとも奴隷社会に近い構造‥などと頭から言い出すとドバイの王様・王家に失礼ですが、言いたいことは言っておきましょう。
まず是の前提としてドバイ国の民族構成が鍵を握ります。
ドバイ人1割に対して外国人が9割です。
さらにドバイ人の多くが国家公務員に属します。
これはドバイ民族が外国人在住者に支えられている事を意味します。
‥とこれ自体に問題はありません。
次に続くのが、そのドバイ国家を支えている通称フリーゾーンと呼ばれる経済特区の在り方です。なんでも域内の商業を活発にするために、企業に対してあらゆる優遇税制が実施されているそうです。
私、中身を詳しく知らない癖に批判的な事を申し上げるのも失礼なわけですが、誰がどう見ても、そこから得られた収益の一部もしくは権益がドバイ国家に流れていることに変わりありません。
外国企業は当然ながら、そこで得られるメリットを最大限に活用しようと、低賃金の外国人出稼ぎ労働者を雇います。
多くがインドからの出稼ぎとの話です。
彼らの多くはタコ部屋労働を思わせるようなすし詰め状態の部屋に寝泊まりし、そこから得た賃金を家族に仕送りする生活をしています。
ここまでの構造を単純に見つめてみましょう。
ドバイは首長国ですから、王様の意向が法律そのものの社会です。
それゆえに外国企業からしてみれば、お役人世界での下請け仕事の如しです。
労働者が問題沙汰を起こせば、出て行けの「はい、さよなら」の心配事で毎日がビクビクです。ですから出稼ぎ労働者を管理するのも外国企業の役割同然になるわけです。
そこでドバイの王様はミラクルを発掘していました。
何でもかんでも世界一を売りにして金融と流通に強い経済構造を目指そう‥
結果、一流能力のない外国企業は始めからお断りの構造がそこにありました。
フリーゾーンと大手に宣伝しても、結局はフリーではなかったのです。
そう考えてみたときに、一つのメリットが浮かんできます。
それは一流の企業であれば、人材管理も行き届いていて、外国人労働者がしでかしかねないような治安の悪化を始めから避けることが可能だという中身です。
そこをまた自覚してもらえばもらうほどに、その管理費用は外国企業持ちのような状況になるのです。
一流の企業であれば、其は言われるまでもありません。
その代わり、規制は一切ありません‥の内訳であればどうでしょう。
リゾートを目玉にしている国家として、観光客同士による治安悪化以外の懸念が発生しないことに繋がって来るわけです。
一方、出稼ぎ労働者はどうでしょう。
どんなに酷い労働条件でも、ストライキに見られるような労働活動をしようものなら、クビも当然だと思っているはずです。また、そのようにクビを切られても首長国ですから、そこに労働者としての権限など用意されていないと思われます。
そんなものがあるのなら、まずは企業の方から、もしもの時の救済を願い出る行動が見られたはずです。
ドバイショックの最中そのように動いた企業はあったのでしょうか?
そして、それよりも彼らにとって重要なのは家族への仕送りです。それ以外の興味などないのも出稼ぎ労働者のゆえんです。
はい、この構造は明らかに新型の奴隷社会の構造そのものです。
それも世界一の構造だと思います。
なにしろ、外国企業からして他人扱いになってしまっているほどですから‥
ただし、まだ中国企業からの参加が見られないようです。
それはまだ、中国企業が世界一の技術を所持していないという証明と言えるでしょう。
もしここに世界一の実力を翳して中国企業の参入が始まれば、中国の企業は自国の労働者ごと移ってきますから、それこそ、ドバイ国家の内訳の7割が中国人になっちゃったという状況も考えられと思います。
そして、中国人ほど中央集権になれてしまっている国民性もありませんから、お役人構造にあればあるほど、労働権において何一つ進展しない世界一になりそうです。
ちなみにブルジュ・ハリファのタワーの高さは828mです。
8+2+8=18です。フリーメイソンの666を意味する6の3倍の18です。
偶然とは思えません。日本のラジオ放送の周波数もこの類だとか‥
しかもタワーの構造は風を上空に逃がすために螺旋構造をしているのです。
バベルの塔のデザインも螺旋構造です。
砂上の楼閣とはよく言ったものです。イラクで原爆実験でも起こして地盤に影響が出れば、ほどよく世界一の斜塔の完成なのかもしれません。
ところで皆さん、上空に風を逃がす量をさらに増やすとどうなるかご存じですか?
水上であればハリケーンが発生し、地上であればトルネードが発生します。
つまり、人工的に上空に風を誘発し続けるメカニズムを確立できれば、砂漠を緑化することも可能なのでは?‥とふと思ってしまいました。
でも雨を降らすには海沿いからの季節風が前提です。それを利用して上空への風を誘発するための施設をうまく配置してやらなければなりません。
何よりも課題は、砂漠にそんな雨が降るようになったときの地盤の変化です。
雨降って地固まるであれば十分でしょうが、雨降って砂漠流れるでは、うまく行かないという懸念も考えられます。
さて、どうでしょう。
ブルジュ・ハリファの上空を観察して得られたデータで、砂漠を緑化できたとしたら、それこそ世界一の出来事です。
ちなみに、風をより大きくするには、都心震災時の火災旋風現象を応用すれば、効果的だと思います。
‥とまぁ、王家に対して批判ばかりで何も参考になることを言わないのも失礼なので申し上げてみました。
まず是の前提としてドバイ国の民族構成が鍵を握ります。
ドバイ人1割に対して外国人が9割です。
さらにドバイ人の多くが国家公務員に属します。
これはドバイ民族が外国人在住者に支えられている事を意味します。
‥とこれ自体に問題はありません。
次に続くのが、そのドバイ国家を支えている通称フリーゾーンと呼ばれる経済特区の在り方です。なんでも域内の商業を活発にするために、企業に対してあらゆる優遇税制が実施されているそうです。
私、中身を詳しく知らない癖に批判的な事を申し上げるのも失礼なわけですが、誰がどう見ても、そこから得られた収益の一部もしくは権益がドバイ国家に流れていることに変わりありません。
外国企業は当然ながら、そこで得られるメリットを最大限に活用しようと、低賃金の外国人出稼ぎ労働者を雇います。
多くがインドからの出稼ぎとの話です。
彼らの多くはタコ部屋労働を思わせるようなすし詰め状態の部屋に寝泊まりし、そこから得た賃金を家族に仕送りする生活をしています。
ここまでの構造を単純に見つめてみましょう。
ドバイは首長国ですから、王様の意向が法律そのものの社会です。
それゆえに外国企業からしてみれば、お役人世界での下請け仕事の如しです。
労働者が問題沙汰を起こせば、出て行けの「はい、さよなら」の心配事で毎日がビクビクです。ですから出稼ぎ労働者を管理するのも外国企業の役割同然になるわけです。
そこでドバイの王様はミラクルを発掘していました。
何でもかんでも世界一を売りにして金融と流通に強い経済構造を目指そう‥
結果、一流能力のない外国企業は始めからお断りの構造がそこにありました。
フリーゾーンと大手に宣伝しても、結局はフリーではなかったのです。
そう考えてみたときに、一つのメリットが浮かんできます。
それは一流の企業であれば、人材管理も行き届いていて、外国人労働者がしでかしかねないような治安の悪化を始めから避けることが可能だという中身です。
そこをまた自覚してもらえばもらうほどに、その管理費用は外国企業持ちのような状況になるのです。
一流の企業であれば、其は言われるまでもありません。
その代わり、規制は一切ありません‥の内訳であればどうでしょう。
リゾートを目玉にしている国家として、観光客同士による治安悪化以外の懸念が発生しないことに繋がって来るわけです。
一方、出稼ぎ労働者はどうでしょう。
どんなに酷い労働条件でも、ストライキに見られるような労働活動をしようものなら、クビも当然だと思っているはずです。また、そのようにクビを切られても首長国ですから、そこに労働者としての権限など用意されていないと思われます。
そんなものがあるのなら、まずは企業の方から、もしもの時の救済を願い出る行動が見られたはずです。
ドバイショックの最中そのように動いた企業はあったのでしょうか?
そして、それよりも彼らにとって重要なのは家族への仕送りです。それ以外の興味などないのも出稼ぎ労働者のゆえんです。
はい、この構造は明らかに新型の奴隷社会の構造そのものです。
それも世界一の構造だと思います。
なにしろ、外国企業からして他人扱いになってしまっているほどですから‥
ただし、まだ中国企業からの参加が見られないようです。
それはまだ、中国企業が世界一の技術を所持していないという証明と言えるでしょう。
もしここに世界一の実力を翳して中国企業の参入が始まれば、中国の企業は自国の労働者ごと移ってきますから、それこそ、ドバイ国家の内訳の7割が中国人になっちゃったという状況も考えられと思います。
そして、中国人ほど中央集権になれてしまっている国民性もありませんから、お役人構造にあればあるほど、労働権において何一つ進展しない世界一になりそうです。
ちなみにブルジュ・ハリファのタワーの高さは828mです。
8+2+8=18です。フリーメイソンの666を意味する6の3倍の18です。
偶然とは思えません。日本のラジオ放送の周波数もこの類だとか‥
しかもタワーの構造は風を上空に逃がすために螺旋構造をしているのです。
バベルの塔のデザインも螺旋構造です。
砂上の楼閣とはよく言ったものです。イラクで原爆実験でも起こして地盤に影響が出れば、ほどよく世界一の斜塔の完成なのかもしれません。
ところで皆さん、上空に風を逃がす量をさらに増やすとどうなるかご存じですか?
水上であればハリケーンが発生し、地上であればトルネードが発生します。
つまり、人工的に上空に風を誘発し続けるメカニズムを確立できれば、砂漠を緑化することも可能なのでは?‥とふと思ってしまいました。
でも雨を降らすには海沿いからの季節風が前提です。それを利用して上空への風を誘発するための施設をうまく配置してやらなければなりません。
何よりも課題は、砂漠にそんな雨が降るようになったときの地盤の変化です。
雨降って地固まるであれば十分でしょうが、雨降って砂漠流れるでは、うまく行かないという懸念も考えられます。
さて、どうでしょう。
ブルジュ・ハリファの上空を観察して得られたデータで、砂漠を緑化できたとしたら、それこそ世界一の出来事です。
ちなみに、風をより大きくするには、都心震災時の火災旋風現象を応用すれば、効果的だと思います。
‥とまぁ、王家に対して批判ばかりで何も参考になることを言わないのも失礼なので申し上げてみました。
2010年02月26日
世界人口問題の不可解
命題:『世界的な格差社会の続く経済構造の中で、世界は果たして、どこまで人口増加のモチベーションを維持できるのであろうか?』
‥という命題を挙げてみます。
最近、物語風ばかりなので少し気分を変えてみたく考えてみました。
今どきの日本の若者は何事にも意欲が低く、中国や東南アジアの青年の方が意欲が旺盛だという話をよく聞きます。
そう思える年配の方は、自分たちの若き頃と重なるそうです。
では、そんな仕事ばかりにガムシャラになってきた先輩世代の残した宿題はどうだったのでしょうか?
子育ては妻まかせ学校まかせ塾まかせ‥おまけに浮気に離婚などなど様々な社会問題をまき散らし、果ては子供が巣立ってからの離婚騒動などをいろいろと耳にします。
日本人ほど、こういう面で極端な民族も他に見あたらないようにも思いますが、先進国で起きている問題はどこもニュアンスの差こそあれ程度横並びです。
そんな親の負の側面を嫌と言うほど見せられた世代は結婚を躊躇します。
そこまででなくとも、低収入な世情に、子育てへの意欲を保つことは共働きでも追いつきません。
そして、そこにある子供の面倒を自分で見られないという負の連鎖、それの環境条件は先輩世代より遙かに悪いのです。否、子供の側から孤立化するには、適した条件ばかりが揃っていると言えるでしょう。
おまけに、そうではない豊かな家庭に育った側は、生活へのモチベーションが長けている一方で、落ち着くところがなく、個人のライフワークに夢中で手が一杯だったりです。
今から20年後、中国や東南アジアに現在と同じように目の輝いた人材が果たして継続的に存在しているのかを考えてみたとき、先進国のそれと同じ病にかかっているのは想像に難くありません。そしてそれはすでに始まっています。
それが資本社会の同じやり方の中で起きている現象であればこそです。
このような人間の心理を織り込めば、世界的な人口増加は、10年後から20年後の段階において、停滞もしくは減少傾向を一時的に織り込んでもおかしくありません。
そしてそのような現象に見舞われた場合、もっとも懸念されることは、右肩上がりの経済は確実にキシミを上げるという中身です。
今でさえ格差社会の雇用事情、そこに戦争もなく、さしたる震災も重ならず、へいへいのんのんと時間が経過しただけでも、それはやって来るのです。
それがグローバルな資本社会の構造欠陥なのですから‥
その時懸念されることは、ランドラッシュと言われる、穀物作付けが過剰に陥っていれば、恐ろしいほどの穀物下落もあり得そうだという側面です。
賢く申せば、日本の政治家や経済人たちには、そんな状況に流されずに、地場を固める方向に進んでもらいたい所です。
参考までに、ウィキペディアの記事「国の人口増加率順リスト」では、2008年版の情報ながら、その時点での世界の人口増加率を1.18%と算出しています。
1%台という数値に、意外に思いましたが、その中でも比較的増加傾向の高く示されているのが、これまた意外にもアフリカ(赤道域)とアラブです。
原油高に潤っていたアラブはともかくとして、アフリカの増加にはそれを増加として織り込むべきなのかという疑問が生じます。なぜなら近年に到るまでの数々のジェノサイドを織り込めば、増加ではなく回復数値でしかないと思えるからです。もしくは難民による増加数かもしれません。
そう思えば、世界の人口増加率が1%を割るか割らないかのもっと微妙な状況にあると考えたとしても的外れではありません。それでも、誰もそんな数値を信じないでしょう。
そんな所で、では、一体なんの数値が伸びているのか?という疑問に付いても検討しておかねばなりません。
たぶんそれはペットです。動物は人間とは違い、一年の一定の時期しか子供を産みません。その代わりご存じ成長するのは早いのです。
そして、人間と同じように長生きする傾向にあるのなら、人間より繁殖増加は大きいと見るべきです。他には動物の保護飼育等に必要とされる餌の確保です。
そう言う数値がお目見えしない時点で怪しげです。
もう一つ考えられることは、儲けるための戦略上、必要もないのにランドラッシュが起きてしまった反動で、事が大げさに解釈されている部分もあると思います。
温暖化現象がもたらす砂漠化への対応策も考えられますが、そのやり方は異常です。
なにしろ、灌漑設備の整っていないところに、ラッシュを掛けている意図がよくわかりません。
本格的に増産計画を立てるのであれば、まずはそこから地場と一体になって事を進めた方が賢明です。
でなければ、全部自分たち持ちなのですからリスクの方が高いと考えるべきでしょう。
それが、土地住民を地元政府と結託して追い出している有様なのですから、わけがわかりません。
それとも、水が少なくても育ってしまう品種でも開発したのでしょうか?
または、大量に生産した食料を宙にでも運ぶつもりなのでしょうか?
そもそもにおいて、生産した穀物を中途で貯蔵する量だけが増加しているような気が致します。穀物取引に必要なのはお金だけではありません、現物がなければ、マネーゲームにはならないという側面に怪しげな影を感じてしまいます。その蓄えが早々に暴落しないように、裏で認知情報をコントロールしている‥そんな読みもできそうです。
世界中で、食べるのに困っている人々も居る中での茶番劇であれば、人類はトコトンまでおバカなマネーゲームと心中するしかないのでしょうね。
実は人口の増加は止まっているだなんて情報が認知されれば、それこそすべては暴落するでしょう。
なんでも暴落がもたらす儲けを狙って独り賭けしているのが、あのロスチャイルドだとネットでチラ読みしました。そう考えれば、ランドラッシュに民主党が動かないというのも、やっぱり小沢とロスは繋がっているんだ‥という落ちにしかなりませんね。
そうなると民主党が中国よりなのではなく、中国が民主党から情報をすっぱ抜こうとしているのが本音という事になりそうです。その少し前までは、ロックフェラーの牙城を崩すべく結託していた‥今は事情が少し違う‥という所でしょうか。
話の角度を少し変えてみます。
未熟児の増加の懸念をもっと織り込むべきでしょう。
仮に世界の人口増加率が1%で、未熟児の確率が1%でも60億の6千万の60万人です。十年後には、その累積600万人を越える数が予想されるでしょう。
何が600万人を越えるのかと申せば、それはそのままに全世界が抱える、新たな人口問題だという事です。
無事に成長できる未熟児もいるでしょうが、そればかりではありません。
障害を抱えたままに何歳まで生きられるのかわからない子供の増加、大人になっても労働力にならないというストレスの中での人生、それと対峙する家族や医師団の苦労、そこに保障や支援はあるのか?
生きる価値がないなどとは口が裂けても言えない‥で、そこに優先順位を設けたままの経済政策に子供支援‥「何馬鹿なこと言ってるんですか!」という大問題の到来が待っているとしたら、あなたどうしますか?
‥という命題を挙げてみます。
最近、物語風ばかりなので少し気分を変えてみたく考えてみました。
今どきの日本の若者は何事にも意欲が低く、中国や東南アジアの青年の方が意欲が旺盛だという話をよく聞きます。
そう思える年配の方は、自分たちの若き頃と重なるそうです。
では、そんな仕事ばかりにガムシャラになってきた先輩世代の残した宿題はどうだったのでしょうか?
子育ては妻まかせ学校まかせ塾まかせ‥おまけに浮気に離婚などなど様々な社会問題をまき散らし、果ては子供が巣立ってからの離婚騒動などをいろいろと耳にします。
日本人ほど、こういう面で極端な民族も他に見あたらないようにも思いますが、先進国で起きている問題はどこもニュアンスの差こそあれ程度横並びです。
そんな親の負の側面を嫌と言うほど見せられた世代は結婚を躊躇します。
そこまででなくとも、低収入な世情に、子育てへの意欲を保つことは共働きでも追いつきません。
そして、そこにある子供の面倒を自分で見られないという負の連鎖、それの環境条件は先輩世代より遙かに悪いのです。否、子供の側から孤立化するには、適した条件ばかりが揃っていると言えるでしょう。
おまけに、そうではない豊かな家庭に育った側は、生活へのモチベーションが長けている一方で、落ち着くところがなく、個人のライフワークに夢中で手が一杯だったりです。
今から20年後、中国や東南アジアに現在と同じように目の輝いた人材が果たして継続的に存在しているのかを考えてみたとき、先進国のそれと同じ病にかかっているのは想像に難くありません。そしてそれはすでに始まっています。
それが資本社会の同じやり方の中で起きている現象であればこそです。
このような人間の心理を織り込めば、世界的な人口増加は、10年後から20年後の段階において、停滞もしくは減少傾向を一時的に織り込んでもおかしくありません。
そしてそのような現象に見舞われた場合、もっとも懸念されることは、右肩上がりの経済は確実にキシミを上げるという中身です。
今でさえ格差社会の雇用事情、そこに戦争もなく、さしたる震災も重ならず、へいへいのんのんと時間が経過しただけでも、それはやって来るのです。
それがグローバルな資本社会の構造欠陥なのですから‥
その時懸念されることは、ランドラッシュと言われる、穀物作付けが過剰に陥っていれば、恐ろしいほどの穀物下落もあり得そうだという側面です。
賢く申せば、日本の政治家や経済人たちには、そんな状況に流されずに、地場を固める方向に進んでもらいたい所です。
参考までに、ウィキペディアの記事「国の人口増加率順リスト」では、2008年版の情報ながら、その時点での世界の人口増加率を1.18%と算出しています。
1%台という数値に、意外に思いましたが、その中でも比較的増加傾向の高く示されているのが、これまた意外にもアフリカ(赤道域)とアラブです。
原油高に潤っていたアラブはともかくとして、アフリカの増加にはそれを増加として織り込むべきなのかという疑問が生じます。なぜなら近年に到るまでの数々のジェノサイドを織り込めば、増加ではなく回復数値でしかないと思えるからです。もしくは難民による増加数かもしれません。
そう思えば、世界の人口増加率が1%を割るか割らないかのもっと微妙な状況にあると考えたとしても的外れではありません。それでも、誰もそんな数値を信じないでしょう。
そんな所で、では、一体なんの数値が伸びているのか?という疑問に付いても検討しておかねばなりません。
たぶんそれはペットです。動物は人間とは違い、一年の一定の時期しか子供を産みません。その代わりご存じ成長するのは早いのです。
そして、人間と同じように長生きする傾向にあるのなら、人間より繁殖増加は大きいと見るべきです。他には動物の保護飼育等に必要とされる餌の確保です。
そう言う数値がお目見えしない時点で怪しげです。
もう一つ考えられることは、儲けるための戦略上、必要もないのにランドラッシュが起きてしまった反動で、事が大げさに解釈されている部分もあると思います。
温暖化現象がもたらす砂漠化への対応策も考えられますが、そのやり方は異常です。
なにしろ、灌漑設備の整っていないところに、ラッシュを掛けている意図がよくわかりません。
本格的に増産計画を立てるのであれば、まずはそこから地場と一体になって事を進めた方が賢明です。
でなければ、全部自分たち持ちなのですからリスクの方が高いと考えるべきでしょう。
それが、土地住民を地元政府と結託して追い出している有様なのですから、わけがわかりません。
それとも、水が少なくても育ってしまう品種でも開発したのでしょうか?
または、大量に生産した食料を宙にでも運ぶつもりなのでしょうか?
そもそもにおいて、生産した穀物を中途で貯蔵する量だけが増加しているような気が致します。穀物取引に必要なのはお金だけではありません、現物がなければ、マネーゲームにはならないという側面に怪しげな影を感じてしまいます。その蓄えが早々に暴落しないように、裏で認知情報をコントロールしている‥そんな読みもできそうです。
世界中で、食べるのに困っている人々も居る中での茶番劇であれば、人類はトコトンまでおバカなマネーゲームと心中するしかないのでしょうね。
実は人口の増加は止まっているだなんて情報が認知されれば、それこそすべては暴落するでしょう。
なんでも暴落がもたらす儲けを狙って独り賭けしているのが、あのロスチャイルドだとネットでチラ読みしました。そう考えれば、ランドラッシュに民主党が動かないというのも、やっぱり小沢とロスは繋がっているんだ‥という落ちにしかなりませんね。
そうなると民主党が中国よりなのではなく、中国が民主党から情報をすっぱ抜こうとしているのが本音という事になりそうです。その少し前までは、ロックフェラーの牙城を崩すべく結託していた‥今は事情が少し違う‥という所でしょうか。
話の角度を少し変えてみます。
未熟児の増加の懸念をもっと織り込むべきでしょう。
仮に世界の人口増加率が1%で、未熟児の確率が1%でも60億の6千万の60万人です。十年後には、その累積600万人を越える数が予想されるでしょう。
何が600万人を越えるのかと申せば、それはそのままに全世界が抱える、新たな人口問題だという事です。
無事に成長できる未熟児もいるでしょうが、そればかりではありません。
障害を抱えたままに何歳まで生きられるのかわからない子供の増加、大人になっても労働力にならないというストレスの中での人生、それと対峙する家族や医師団の苦労、そこに保障や支援はあるのか?
生きる価値がないなどとは口が裂けても言えない‥で、そこに優先順位を設けたままの経済政策に子供支援‥「何馬鹿なこと言ってるんですか!」という大問題の到来が待っているとしたら、あなたどうしますか?
2010年01月20日
震災預言と神界の本音
近年に見られる地震はすべて地震兵器に因るものだという意見が大きく噂されています。それどころか、気象による異常も気象兵器に因るものだと噂されています。
いつ頃からそうなのかは定かではありません。
神界からの言葉を預かる方々の最近の内容では、ますます異常気象が高まるとの発言をする一方で、米国の覇権を握る一部の集団は、秘かに宇宙人と関わりを持ち、そこから得られる取引で、かなりのテクノロジーを既に手にしているとの話です。
(※ちなみに、地球に関する宇宙人との関わりは神界の方針に従って取りなされています。つまり神界の許可無くして、宇宙人と地球人類の接触は有り得ないのです。)
それにしても、無から有を取り出せる技術を持つ宇宙人が、一体どんな取引を米国の強欲な支配層としているのかに興味が尽きません。
さて最近の気象についてです。
昨年の12月ぐらいでは誰しもが、このまま暖冬と思ったことでしょう。
しかしながら、冬とはいえ、その予想に反して原油相場の価格は上昇を続けていました。
そして、暮れを境に暖冬模様は傾き、突発的なドカ雪に見舞われた地域などがありました。まるで、それらがわかっていたかのような原油相場の反映です。それ以降、原油相場の上昇は足踏みをしているように思えます。
私の感想としては、気象操作の技術はレベルアップしている‥そう考えています。
それでもこれは日本の場合に限っての感想ですので、他国が当てはまるかまでは存じません。
では地震の方はどうでしょう。
ちなみに地震兵器の原理は、地下にある水源にプラズマを照射して水源の水を沸騰させ、その過熱圧力を地下震動に利用するという内容です。
最近放送されましたNHK番組(タイトル略)、阪神淡路大震災の震源の下にもそのような固まりが2つあったことが説明されていました。それはそのままに地震兵器の原理そのままのように思われます。ただそんな当時からそこまで正確に地震の規模や位置を狙えるものなのかは定かではありません。
(※ちなみに、新潟で起きていたM6.8クラスの連続した地震を地震兵器による攻撃だとすれば、その性能と狙いに同一性を見いだせなくもありません。)
また、スマトラ沖に関しては、あの近辺の地下の地盤構造が海面上昇に伴う水圧に耐えられずに崩壊してしまう脆さがあるとの見解が神界の方から言われております。
天然なのか?それとも兵器なのか?、まったくわからない状況を鑑みるに、アトランティスやムーの時代でも、同じような状況があったのではと勘ぐりたくなります。
では何のために、そんなままどろっこしいやり方を人間に対して行うのでしょうか?
そこがポイントです。
現代で言えば、震災に合えば人道的支援が叫ばれます。どんな主義主張をしていてもその辺りの心理に国民性という壁は無いようです。
しかしながら、少し疑問が生じます。
ふだんは競争の煽りを受け入れていながら、困った時になれば皆一様に人道的支援を口にするのです。競争が出来ないからではありません。本気でそう思うわけです。
一カ所や二カ所への対応なら何も疑問を感じる所ではありませんが、仮に世界同時多発的震災なる現象が起きたとしたらどうでしょう?
支援など来るのでしょうか?
仮に来ることが前提で、十分な支援がやって来たとしましょう。
それは何か変な話です。それだけの用意や準備がなされていなければそんな事は成り立ちません。それが前提にあります。
予算や計画以上に儲けるにしても、誰かが会社の方針に違反して増産しておかなければ、ブレイク中の売上倍増には繋がりません。それはブレイクしなければ在庫を抱えるだけの不経済な経営そのものです。
言うならば、支援計画以上の災害に対応できたならば、それは明らかにおかしいと言うことです。国連はどれだけその準備が出来ているというのでしょうか?
近年においては毎年必ずどこかで何かが起きています。
一国の国内での出来事であれば、体力を削がれて手に負えない有様になるはずです。
特に食料の調達は不思議です。それだけの準備がなされているのであれば、世界中にはかなりの食料準備が成り立っていると考えてもおかしくないからです。
テレビ報道では、支援の届いている人とそうでない人の言葉が聞かれます。国連は準備があるようになだめてはいますが、実際には不明確だと言うことです。
そうでないというのならば、なぜ、国連はそれだけの準備が出来るにもかかわらず、普段から分かち合う段取りを取らないのかがその時の疑問として持ちあがるのです。
それは本腰を入れて何もしていないという説明的現象にしかなりません。
それはそのままに人類のすべてに対して言えることです。
震災という理由がなければ分かち合えないのであれば、平和など分かち合えるわけがないのです。そう思います。
神界が自然災害を預言する言動理由の裏側にあるものとして、一部のクレイジーな人間(特権階層)を利用する‥利用することを試みる勢力がいる(そうなるように段取りを仕向けている)‥そして神界には特に是と言った意識の制限がされていない‥それゆえの最低限の現象界に対する心配り‥そう考えられるのです。
なにしろ、神界は自ら、心の像が現象化するを口にして繰り返す立場です。
そして人間がそれほどに破壊的なエネルギーのみを蓄積しているのかと言えばそうではありません。自然環境に対しては、全体で見れば意識は薄いように思えますけどね。それでもそれはそういう地域で請け負えばいいだけの論理です。
宇宙から飛来した小惑星が衝突でもすれば、一瞬で地球文明など崩壊しかねませんが、そうではない地球上での出来事であれば、人間を利用するしか盛大に行うための方法論はない‥そんな気がいたします。それが通常認識下での意識の現象化原理です。
アトランティスやムーの時からそうだった‥ただ、その時はしでかしてみたい衝動の方が無意識下で暴走していた。しかし現代社会においてはその暴走に集合意識下での何らかの歯止めが起きているために預言は必ずしも的中しない‥それでも人類はその先の未来をどう生きればいいのかに素直になれないでいる‥もっとも素直になれていないのは一部の強烈な特権階層だけのように思われる。
そしてそれら危なげな特権階層の言動操作に安易に誘導されているような人間には何も期待していない。それが神界の人間に向けている厳格な判断‥そう考えられるのです。
とまぁ、長い説明でしたが、そんなこんなで自業自得?天罰?天の警告?の震災論でした。
もっとも今の時代一番の問題は、人類の大半が、神の何を信ずれば良いのかを見失っている点において、全体でのエネルギーバランスの欠如があるように思われます。
いつ頃からそうなのかは定かではありません。
神界からの言葉を預かる方々の最近の内容では、ますます異常気象が高まるとの発言をする一方で、米国の覇権を握る一部の集団は、秘かに宇宙人と関わりを持ち、そこから得られる取引で、かなりのテクノロジーを既に手にしているとの話です。
(※ちなみに、地球に関する宇宙人との関わりは神界の方針に従って取りなされています。つまり神界の許可無くして、宇宙人と地球人類の接触は有り得ないのです。)
それにしても、無から有を取り出せる技術を持つ宇宙人が、一体どんな取引を米国の強欲な支配層としているのかに興味が尽きません。
さて最近の気象についてです。
昨年の12月ぐらいでは誰しもが、このまま暖冬と思ったことでしょう。
しかしながら、冬とはいえ、その予想に反して原油相場の価格は上昇を続けていました。
そして、暮れを境に暖冬模様は傾き、突発的なドカ雪に見舞われた地域などがありました。まるで、それらがわかっていたかのような原油相場の反映です。それ以降、原油相場の上昇は足踏みをしているように思えます。
私の感想としては、気象操作の技術はレベルアップしている‥そう考えています。
それでもこれは日本の場合に限っての感想ですので、他国が当てはまるかまでは存じません。
では地震の方はどうでしょう。
ちなみに地震兵器の原理は、地下にある水源にプラズマを照射して水源の水を沸騰させ、その過熱圧力を地下震動に利用するという内容です。
最近放送されましたNHK番組(タイトル略)、阪神淡路大震災の震源の下にもそのような固まりが2つあったことが説明されていました。それはそのままに地震兵器の原理そのままのように思われます。ただそんな当時からそこまで正確に地震の規模や位置を狙えるものなのかは定かではありません。
(※ちなみに、新潟で起きていたM6.8クラスの連続した地震を地震兵器による攻撃だとすれば、その性能と狙いに同一性を見いだせなくもありません。)
また、スマトラ沖に関しては、あの近辺の地下の地盤構造が海面上昇に伴う水圧に耐えられずに崩壊してしまう脆さがあるとの見解が神界の方から言われております。
天然なのか?それとも兵器なのか?、まったくわからない状況を鑑みるに、アトランティスやムーの時代でも、同じような状況があったのではと勘ぐりたくなります。
では何のために、そんなままどろっこしいやり方を人間に対して行うのでしょうか?
そこがポイントです。
現代で言えば、震災に合えば人道的支援が叫ばれます。どんな主義主張をしていてもその辺りの心理に国民性という壁は無いようです。
しかしながら、少し疑問が生じます。
ふだんは競争の煽りを受け入れていながら、困った時になれば皆一様に人道的支援を口にするのです。競争が出来ないからではありません。本気でそう思うわけです。
一カ所や二カ所への対応なら何も疑問を感じる所ではありませんが、仮に世界同時多発的震災なる現象が起きたとしたらどうでしょう?
支援など来るのでしょうか?
仮に来ることが前提で、十分な支援がやって来たとしましょう。
それは何か変な話です。それだけの用意や準備がなされていなければそんな事は成り立ちません。それが前提にあります。
予算や計画以上に儲けるにしても、誰かが会社の方針に違反して増産しておかなければ、ブレイク中の売上倍増には繋がりません。それはブレイクしなければ在庫を抱えるだけの不経済な経営そのものです。
言うならば、支援計画以上の災害に対応できたならば、それは明らかにおかしいと言うことです。国連はどれだけその準備が出来ているというのでしょうか?
近年においては毎年必ずどこかで何かが起きています。
一国の国内での出来事であれば、体力を削がれて手に負えない有様になるはずです。
特に食料の調達は不思議です。それだけの準備がなされているのであれば、世界中にはかなりの食料準備が成り立っていると考えてもおかしくないからです。
テレビ報道では、支援の届いている人とそうでない人の言葉が聞かれます。国連は準備があるようになだめてはいますが、実際には不明確だと言うことです。
そうでないというのならば、なぜ、国連はそれだけの準備が出来るにもかかわらず、普段から分かち合う段取りを取らないのかがその時の疑問として持ちあがるのです。
それは本腰を入れて何もしていないという説明的現象にしかなりません。
それはそのままに人類のすべてに対して言えることです。
震災という理由がなければ分かち合えないのであれば、平和など分かち合えるわけがないのです。そう思います。
神界が自然災害を預言する言動理由の裏側にあるものとして、一部のクレイジーな人間(特権階層)を利用する‥利用することを試みる勢力がいる(そうなるように段取りを仕向けている)‥そして神界には特に是と言った意識の制限がされていない‥それゆえの最低限の現象界に対する心配り‥そう考えられるのです。
なにしろ、神界は自ら、心の像が現象化するを口にして繰り返す立場です。
そして人間がそれほどに破壊的なエネルギーのみを蓄積しているのかと言えばそうではありません。自然環境に対しては、全体で見れば意識は薄いように思えますけどね。それでもそれはそういう地域で請け負えばいいだけの論理です。
宇宙から飛来した小惑星が衝突でもすれば、一瞬で地球文明など崩壊しかねませんが、そうではない地球上での出来事であれば、人間を利用するしか盛大に行うための方法論はない‥そんな気がいたします。それが通常認識下での意識の現象化原理です。
アトランティスやムーの時からそうだった‥ただ、その時はしでかしてみたい衝動の方が無意識下で暴走していた。しかし現代社会においてはその暴走に集合意識下での何らかの歯止めが起きているために預言は必ずしも的中しない‥それでも人類はその先の未来をどう生きればいいのかに素直になれないでいる‥もっとも素直になれていないのは一部の強烈な特権階層だけのように思われる。
そしてそれら危なげな特権階層の言動操作に安易に誘導されているような人間には何も期待していない。それが神界の人間に向けている厳格な判断‥そう考えられるのです。
とまぁ、長い説明でしたが、そんなこんなで自業自得?天罰?天の警告?の震災論でした。
もっとも今の時代一番の問題は、人類の大半が、神の何を信ずれば良いのかを見失っている点において、全体でのエネルギーバランスの欠如があるように思われます。
タクティカルRPGに民主主義は見いだせるか?
タクティカルRPGのシステムは実に資本主義を臭わせます。
その手のゲームをプレイしているとつくづくそう感じます。
大戦略のような現代兵器を主体とした戦略ウォーシミュレーションでは、都市を占領することで兵器生産の予算が得られ、生産の出来るポイントで生産をする形です。
敵対国との戦力バランスが取れているときは前線が築かれ、ゲームとしては盛り上がりますが、その均衡が一旦崩れようなら、生産力に差が付いてしまう事からどうにもならない消化作業をどちらにも強いるだけに落ち込みます。
その手の消化ゲームを、ゲームであればもっと楽しく進められるように工夫すれば、ゲームとしてゲームらしくなると思うわけですが、そんなことを思ってしまうのも、現実社会と比べてみたり、日本の遊び文化と世界の遊び文化との差を思えばこそです。
例えば、遊びですから、{破壊された数}≒{生産された数}が負けた側の状況であれば、前線が崩壊したことで、撤退し、それ以上のユニットをむやみに失わせずに後方に集めて、最終的には相手の兵器を破壊した獲得ポイントを競うという発想であれば、ポイント差での逆転を目論むという粘りをゲーム性に取り込むことも出来るわけです。
それが民主主義的かどうかは別として、ゲーム性のモチベーションを保つには、それなりの一工夫が必要だと思います。でなければ、対人で遊ぶというゲーム文化には弱肉強食を煽り立てるような取っつき難さしか育たないように思います。
それはつまり、ゲームと言えどもリアルファイト張りに、徹底的に仮想現実と化す発想が本当の意味で楽しいのか否かです。
マンガにおいても、リアルの武道とスポーツの武道の差を区別する思想があります。それはそれで人間性の持ち味としてはおもしろいと思いますが、この辺の徹底思考は、民主主義の市民意識からみればクレイジーでしかありません。
だから良くないという視点ではなく、ただ民主主義として考えたとき、どこに主体を求めるのかという理念は重要だと思うわけです。
例えば、柔道や剣道です。
技あり有効と追いつめられていても、一本でひっくり返るわけです。
それがゲーム性です。肉体を駆使すれば競技性です。
実践の命の取り合いでは、技ありでも有効でも命取りになりかねません。一本などは無いのです。たとえ一本とばかりに状況がひっくり返ったとしても、生還できるかどうかに保証など無いわけです
チェスと将棋では、取った駒を使えるかどうかの差ではありますが、その差は騎士道と武士道の差のように思えます。
その昔、天下を取ることで戦が無くなると誰しもが思っていたわけですが、そんな戦を認知しあっていたのは世界広しと言えでも日本の戦国の世だけです。
それはつまり、天下をまとめるための戦という風情が将棋の駒に反映しているように感じられるのです。味方をすれば重宝されると言ったところでしょうか‥
ところがその一方で、取った駒を使わない概念は、覇者として勝利した一族で側近を固める事を前提としている概念の現れのように感じられるのです。
それだけの文化の差、民族性の差がそこに息づいているように思います。
花札なんかも意味深い所があります。
花札に見られるこいこいルールは、持ち越すか持ち越さないかが株式トレードに似ていると思える点は資本主義的だと思いますが、ところがどうでしょう‥麻雀やトランプでは、勝つことを主体としていますが、勝ったのにわざわざ相手にも起死回生のチャンスを与える要素が花札にはあるのです。実にユニークです。
で、ついでながらこんな日本的な古典ゲームを今の時代なら武将の顔に置き換えて何か出来ないかなぁと思ったりします。タイトルは「天下札」なーんてね。
ゲームとしての売りは、武将にまつわる伝承を織り込んだ人間学を学ぶための要素を花札形式に取り入れられるかどうかです。
ただ、札の総数をどれぐらいにするべきかを決める上で知識が足りないため、アイデアとしてまとまっておりません。(※ちなみにこのアイデアの活用は自由です。)
話を戻しましょう。
言いたいことは、人生はゲームではないと言い張ったまま、斬った張ったにしかあれていない弱肉強食な経済ルールと対峙するだけが人間の織りなす文化性ではないと言うことです。
そしてそこに革新をもたらすことが出来るのは、ゲームにおいてさえユニークな発想を見い出してきた日本国だけなのだと思えるのです。
生きやすくするための改革を求めればこその文化です。
{リアル=弱肉強食}である必要は民主主義において必ずしも必要ではありません。
ゲームだからと言わずに、そう言う所から、民主主義としての在り方を模索する態度は大切だと思います。
仮に、弱肉強食からなる克己心であらねば人生へのモチベーションが保てないというのならば、そこに民主主義の育たない原因を、その人自身が自分の生きる世界観の中に持ち込んでいるという以外のなにものでもないと言えるだけです。
すべての人がそのようなモチベーションのままに生きたいわけではありません。
民主主義とは多数決制と言われても、それ以前に、人権の保障それ自体が国民主権の主体として存在するのです。どちらの方が重いかと言えば、後者なのです。そう思います。
その手のゲームをプレイしているとつくづくそう感じます。
大戦略のような現代兵器を主体とした戦略ウォーシミュレーションでは、都市を占領することで兵器生産の予算が得られ、生産の出来るポイントで生産をする形です。
敵対国との戦力バランスが取れているときは前線が築かれ、ゲームとしては盛り上がりますが、その均衡が一旦崩れようなら、生産力に差が付いてしまう事からどうにもならない消化作業をどちらにも強いるだけに落ち込みます。
その手の消化ゲームを、ゲームであればもっと楽しく進められるように工夫すれば、ゲームとしてゲームらしくなると思うわけですが、そんなことを思ってしまうのも、現実社会と比べてみたり、日本の遊び文化と世界の遊び文化との差を思えばこそです。
例えば、遊びですから、{破壊された数}≒{生産された数}が負けた側の状況であれば、前線が崩壊したことで、撤退し、それ以上のユニットをむやみに失わせずに後方に集めて、最終的には相手の兵器を破壊した獲得ポイントを競うという発想であれば、ポイント差での逆転を目論むという粘りをゲーム性に取り込むことも出来るわけです。
それが民主主義的かどうかは別として、ゲーム性のモチベーションを保つには、それなりの一工夫が必要だと思います。でなければ、対人で遊ぶというゲーム文化には弱肉強食を煽り立てるような取っつき難さしか育たないように思います。
それはつまり、ゲームと言えどもリアルファイト張りに、徹底的に仮想現実と化す発想が本当の意味で楽しいのか否かです。
マンガにおいても、リアルの武道とスポーツの武道の差を区別する思想があります。それはそれで人間性の持ち味としてはおもしろいと思いますが、この辺の徹底思考は、民主主義の市民意識からみればクレイジーでしかありません。
だから良くないという視点ではなく、ただ民主主義として考えたとき、どこに主体を求めるのかという理念は重要だと思うわけです。
例えば、柔道や剣道です。
技あり有効と追いつめられていても、一本でひっくり返るわけです。
それがゲーム性です。肉体を駆使すれば競技性です。
実践の命の取り合いでは、技ありでも有効でも命取りになりかねません。一本などは無いのです。たとえ一本とばかりに状況がひっくり返ったとしても、生還できるかどうかに保証など無いわけです
チェスと将棋では、取った駒を使えるかどうかの差ではありますが、その差は騎士道と武士道の差のように思えます。
その昔、天下を取ることで戦が無くなると誰しもが思っていたわけですが、そんな戦を認知しあっていたのは世界広しと言えでも日本の戦国の世だけです。
それはつまり、天下をまとめるための戦という風情が将棋の駒に反映しているように感じられるのです。味方をすれば重宝されると言ったところでしょうか‥
ところがその一方で、取った駒を使わない概念は、覇者として勝利した一族で側近を固める事を前提としている概念の現れのように感じられるのです。
それだけの文化の差、民族性の差がそこに息づいているように思います。
花札なんかも意味深い所があります。
花札に見られるこいこいルールは、持ち越すか持ち越さないかが株式トレードに似ていると思える点は資本主義的だと思いますが、ところがどうでしょう‥麻雀やトランプでは、勝つことを主体としていますが、勝ったのにわざわざ相手にも起死回生のチャンスを与える要素が花札にはあるのです。実にユニークです。
で、ついでながらこんな日本的な古典ゲームを今の時代なら武将の顔に置き換えて何か出来ないかなぁと思ったりします。タイトルは「天下札」なーんてね。
ゲームとしての売りは、武将にまつわる伝承を織り込んだ人間学を学ぶための要素を花札形式に取り入れられるかどうかです。
ただ、札の総数をどれぐらいにするべきかを決める上で知識が足りないため、アイデアとしてまとまっておりません。(※ちなみにこのアイデアの活用は自由です。)
話を戻しましょう。
言いたいことは、人生はゲームではないと言い張ったまま、斬った張ったにしかあれていない弱肉強食な経済ルールと対峙するだけが人間の織りなす文化性ではないと言うことです。
そしてそこに革新をもたらすことが出来るのは、ゲームにおいてさえユニークな発想を見い出してきた日本国だけなのだと思えるのです。
生きやすくするための改革を求めればこその文化です。
{リアル=弱肉強食}である必要は民主主義において必ずしも必要ではありません。
ゲームだからと言わずに、そう言う所から、民主主義としての在り方を模索する態度は大切だと思います。
仮に、弱肉強食からなる克己心であらねば人生へのモチベーションが保てないというのならば、そこに民主主義の育たない原因を、その人自身が自分の生きる世界観の中に持ち込んでいるという以外のなにものでもないと言えるだけです。
すべての人がそのようなモチベーションのままに生きたいわけではありません。
民主主義とは多数決制と言われても、それ以前に、人権の保障それ自体が国民主権の主体として存在するのです。どちらの方が重いかと言えば、後者なのです。そう思います。